現象は良くも悪くもない。では、選択とは何か

「選択」と言うときに、私たちは現象や行動面での選択を思い浮かべがちではないだろうか。たとえば、何かを「するか・しないか」「何をするか」「どうするか」など。
人間社会では、行為、行動への責任や自覚を伴うこと、促すことは多いが、この記事ではまず、「現象は良くも悪くもない」を思い出してもらおう。
「現象」を、私たちの経験する出来事や状況という意味での「現実」という言葉に置き換えてもいい。

現象は良くも悪くもない。「ああ、中立ということね」と、理解している人もいるだろう。「あらかじめ決まった意味はない」と、理解している人もいるだろう。意味付けするのは、解釈をするのは、自分自身であると。

しかし、これを真の意味でそうとわかるのは、かなり意識の明晰さを高めているときのみではないだろうか。
反射的にものごとの善し悪しを判断したり、そこに自分なりの絶対的な意味を見出して「それ以外にはないんだ」と解釈したり。私たちは多分に無意識的に、あらゆるものへ自分の考えによる「ラベル付け」を行っている。

そしてもうひとつ言えるのが、私たちは見えるもの、肉体を通して知覚するものや体験したと思っている現象に価値を置くということだ。そういうものをこそ、「ある」と認識するということ。
あなたが心の中でパンを食べたら「実際に食べた」とは思わないが、肉体で知覚しながらパンを食べたら「本当に食べた」と思うのではないだろうか。
だからこそ、「選択」についても、行為、行動、現象としての面の選択の方へフォーカスしてしまう傾向があるのだ。
冒頭で述べたように、「するか・しないか」「何をするか」「どうするか」などを決めることを「選択」と考えるんだね。

見える選択で人を評価していないか

すると、自分に対しても人に対しても、行為や現象として「見える選択」を求める習慣がついてしまう。そこをこそ評価の対象にするのだ。

たとえば「スピリチュアル」と呼ばれる分野の中でも、自分の思うスピリチュアルな価値観に基づいて「あの人は、こんなことをしていたのでスピリチュアルじゃない」「これをしない人はスピリチュアルなわけがない」などの判断の姿勢を見ることがある。
さらには、場合によってはある人の中にスピリチュアル規範とでも言おうか、人間関係や服装や趣味や仕事や食を含む生活習慣など、人生のあらゆる分野において「スピリチュアルなら、こうであるべき」という指針が存在していることもある。

そのような決まった基準はなく、それらのルールはその人の中で定めている考えにすぎないのだが、何よりも気づく必要があるのは、その考えは確実に「自分」に適用されるということだ。
誰かに対して、ある価値観を適用するとき間違いなく言えるのは、あなたはそれを自分に対して有効にしているということだ。

だからこそ「選択」に関する誤った見方、錯覚の状態をこの記事でしっかり解こう。
あなたは自分の「選択」とは何かを、真に理解しているだろうか?

現象は良くも悪くもない、それでは「選択」とは何か

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