価値判断と、混乱した創造者であることをやめる

人間として世界を体験していると、9割5分、いやもしかすると99パーセント以上のものが見えていない。それは海面だけを見て「海を知っている」と思うことと似ている。海中や海の底はもちろん、海の中での広大な営みが見えているわけではない。あるいは、航空写真を見て、地上で起こっているあれこれを知っていると考えることにも似ている。
そんな風に多くのことを「わかっているつもり」になって生きている上に、たとえ表層だけでも「正確に」見えていればいいのだが、人間は歪める能力、自分の思いの通りに事実とは異なるものを見る能力を発達させている。
言うまでもなく、ここで「見る」と表現しているのは理解力や認識能力全般のことで、肉体の視力の話ではない。

人によっては、「いかに何も見えていないか」ということを深く考える機会なく生活していることがあるかもしれない。私の場合は、「見えていないという実態に気づく」機会の多い人生を歩んできた。だから、人間の日常の知覚では把握しておらず、理解していない領域について気づいたこと、学んだことを表現し共有するために、「スピリチュアル」や「精神世界」と呼ばれる既存の分野を使ってきた。

ここで伝えておきたいのだが、教える側・伝達する側と、一時的に教えを受ける側になる者との違いは、見る能力の違いではない(たとえ見る能力に違いがあったとしても微々たるものにすぎない。冒頭の文を思い出してほしい)。そうではなく、「いかに見えていないか、わかっていないかを知っている」自覚の強烈さの違い、その認識の有無だ。これはそのまま、制限から出る能力を意味する。
つまり、教える側であればあるほど、いかに知らないかを痛烈に知っているということだ。その自覚がなく教えていれば、何かしら道から外れているということだろう。

その自覚があると、この世ではこうだ! と決まっていることの「余白」をいつもどこかで考慮する姿勢になる。「当然」とされているものごと、自分を含む人々が「これはこういうものだ」と信じているあれこれのハリボテ感をよく知っており、吹けば飛ぶ紙のようにそれらははかなく、多数ある現実体験のバリエーションのひとつに過ぎないとわかっているからだ。

この流れで、今回は「価値判断」の話をする。
私たちはものごとの優劣を判断したり、善悪を決めたり、様々な場面で価値判断を行っている。
これは生きる上で必要な能力に見えるが、あなたの下す価値判断は、あなた自身も他者も苦しめる結果になっていないだろうか。

価値判断をする能力と、各々の真実はあるか

「人を裁いてはいけません」「価値判断をすべきではありません」――そう言われても、単にルールとしてそれらを守ると決めるのでは真意を会得していないかもしれない。
価値判断をやめることは、正しい認識を取り戻すために必須なのだが、恐れから、あるいは自分の利益のためにそうしようという気持ちなら、本質からずれている。
本当は、価値判断をしなくなるのは、「自分とは何か」を正しく思い出した「自然な結果」なのだ。
人によっては、「価値判断は両刃の剣だ。外側に向けたジャッジは、自分に返ってくる(自分自身にそうしているのと同じ)」と理解していたとしても、傷つき得る自己を守るためにルールを遵守しているのなら、理解が不足しているということだ。

なぜ、そう言えるのか?
単純な話だ。土台から理解しよう。「価値判断をしない」ということに含蓄されている意味を。それは、

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