忘年会スルーする・しないの奥にあるもの。あなたがあなたを生きるには

「忘年会」。自分中心の仕事をしている私には今は関係がない行事だけど、「忘年会スルー」というワードなど、今月は忘年会に付随する話題をちょこちょこ耳にはさんで、思うところあった。
忘年会に参加する・しないは個人の自由だが、たとえば「忘年会に出るのが正しい」「出ないのが正しい」など、どちらか一方をスタンダードにしようとすると本末転倒で、結局は「同じものの両極」にすぎなくなってしまう。
そもそも、ある人が「忘年会」というものに向き合うにしても、参加したい気持ちになる職場やメンバー、年というのもあれば、そうではない時や状況もあるだろう。

たとえば今の私なら、もし忘年会のような機会があっても、かつてと違って参加しないかもしれない。その理由は夜出歩くことが好きでなくなったからで、普段から、会いたい人とは夜以外の互いの都合のつく時間に会う。
飲みという点でも、夜に外で飲むことが楽しく感じられた時期は終わったようだ。今では寝支度を済ませてリラックスした状態での宅飲みが一番好きだ(夜の盛り場の空気が相当苦手になったし、外で飲むと帰路が負担で疲れが増す)。
かといって、昔からそのようだったというわけではない。

忘年会についてはその意義まで問われていて、個人が費用を出す場合は費用面、会社が経費を持つ場合でも参加しない立場からは「無駄遣い」に思えるなど、論じる角度が色々ありそうだ。ただ、私は個人的には、会社に属していた頃は忘年会を楽しい行事として経験していた。同じ会社にいる人たちの普段見られない一面が体験できて、貴重な機会だったのだ。
自分の属していたいずれの会社もその当時は好きだったし、滅多になく会社全体規模で集まっての行事は、参加メンバーのオフの顔が見られる楽しい場だと私は感じていた。会社で毎日顔を合わせていても、個人的に仲が良い人たちと以外は、そうした側面を見せ合う機会が普段はなかった。

お酒を飲まない人も参加していたが、誰かが強要することはもちろんなく、居心地の良い空気が流れていたのが思い出される。そして、勤務時間中には予想もつかなかった趣味や性格なんかの「個人の色合い」が発見できるのが本当に楽しかった。
忘年会の後日は職場で、これまでやや他人行儀だった間柄でもより親しみをもって打ち解ける様子が見られた。それは業務上の一面で接し合っていた者同士が、もう少し個人的な「知っている人」へと変わる優しい感覚だった。人と人との境界が「角」で構成されていたのが、「柔軟に形を変える曲線」になったような。

自分の側面って、そんなにキッチリ分ける必要ある?

これに関連して、私の周囲でもときどき聞いたことがあったのが、「会社の人とはプライベートで関わりたくない」「仕事とプライベートは分けたい」などの考えだ。それはそれで個人のスタイルだし、プライベートの時間を大切にすることに異論はない。一方で、そんなに「キッチリ」分けられるものだろうかと疑問にも思う。仕事とプライベートという別々に見える「分類」を基準にしようとも、だ。

あまりにキッチリ分ける必要が出てくるとき、自己の自然な延長上に仕事があるというよりも、無意識的にかもしれないが、仕事やその中での人間関係で自分で感じている「役割」を「こなしている」ということはないだろうか。
たとえば仕事で「全く別の自分」や「仮面をかぶった姿」を演じているのであれば、それを「素の時間」にまで持ち込みたくはないだろう。

本来は、そんな風に自己が分かれているわけではなく、あなたという個人の「混ざり合っている多色な表現」の中に、境界なくすべてが含まれている。仕事の活動の中にももちろんあなたの「色」が出ているだろうし、人間関係としても、そんなあなたと自然と仲良くなる人、仕事仲間以上に関わる人が「仕事場で」出てきてもおかしくない。
つまり、あまりに「仕事」「趣味の活動」「プライベート」などにキッチリ分ける発想を持って、さらには「恋愛やパートナー探しはまた別分野なので、マッチングアプリで合う条件の相手を」……みたいに割り振り始めたとしたら、どうも不自然なことだと私は感じる。

忘年会に話を戻すと、大勢の会合が好みでないとか、飲み会の席を好まないという場合、そこに居合わせる必要はない。でももし、年に数回あるかないかの行事に「プライベートの時間を費やしたくない」と感じることだけが参加したくない理由として浮かぶなら、その会社や仕事自体をあまり好きではないか、普段、無理して働き過ぎている可能性も吟味していいと思う。
その場合は忘年会への思いや感情、「忘年会をどうするか」は、実はただの象徴であって本当の問題ではない。湧いてくる思いは、忘年会に対するものではないのだ。

現代社会の注意点。世論やスタンダードが味方しなくても、あなたはあなたでいよう

近年は「忖度社会」というか、ルールや新たなスタンダードを流布することによって、気遣いという見せかけをまとった「空気を読むことを強制する」風習の進化形が現れ、新たなフェーズに入っていると思う。
多様な○○ハラスメントなどに対応するルール決めもそうだが、決まりの形を増やすことで「個人的に」空気を読む負担を軽くしているようでいて、実はみんなで同調することを前提とする(ある意味では日本文化らしい)姿勢が深められている。

ここで思い出してほしいのは、

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