2022年9月中旬の近況、形から入ることはできないんだねって順序の話、そしてカラス

やー、どもども、水面下の作業をポソポソ進めているうち、すっかり季節が巡ってしまったい。作業が終わるのを待ってるとなかなか記事の更新ができないので、ここらで近況を差し挟む。

先月のはじめに◇「今を満喫する・new phaseにおすすめの記事」でふれたことなんだけど、

私の中で決定的に終わってしまったこと、そしてすでに新しいスタートを切っていることの形態的な象徴として、これまでずっと運営していたブログが挙げられる。
そのブログは2011年の夏から続けており、途中改題したり、ブログサービスを引越したりなど変化はあったが、開設から11年が過ぎた2022年9月現在も使用している。
しかし、私自身の変化やブログコンセプトの変遷に沿えば、終わりを迎えていることを実感していた。

そのブログは私がスピリチュアリティーを軸にしたセッションや講座を行っていた頃の窓口としても機能してくれたものだ。
一方で、現在の私は掛値なしにこのnoteを表現の場としても、収入源としても基盤にしている。noteの自己紹介記事で書いたように、名実ともにここを執筆の場としているのだ。

そんな風にnoteを中心にし始めて三年が経過した。にも関わらず、私の心の中ではなぜかnoteは間借りしている場所のような気分があり、依然として「ホーム」はブログと感じるような気分がぬぐえず、実態とはズレた、分裂した心理的状況があったのだ。
かといってブログは既述の通り、「今の私」にとっての役目は終えた実感があった。こうした気づきの帰結として、私は次なる新しいブログを作成していたのである。

といっても、私は今後もこのnoteで執筆していくので、新ブログはその活動を報告する場、紹介する場になる。なんなら、他にサイトはもう無くってもいいんじゃない? ということも考えたのだが、私はSNSをやらないので、活動状況を見やすくすることとアーカイブのためにも、ブログはあった方がやはりいいという結論に達した。

こうしたことをここではサラサラと述べているが、ここに至るまでに相応の試行錯誤と自問自答の期間があった。

形を先に整えようとしたけれど

自分の目的が曖昧なうちは、新サイトを創る作業に取りかかっても立ち止まることばかり。とりあえず形を整えてしまえばどのように使うかも浮かんでくるだろうと思ったけど、そんなことはなかった。

内なる構想が形になるのであって、その逆ではないのだった。
内がUNCLEARであれば、形の世界でもそれを反映するだけ。明瞭になっているところに対応したところまでしか創れないのだ。

もちろん、動いてみて「あ、これは違うな」とわかることがあるから、行動の意義を否定する意図はない。
ただ、「形が先」で中身がついてくるということはなく、そのように見えるときですら、あなたの内では「あるイメージが先に固まっていた」と言えるのだ。

余談だが私の場合、ウェブサイト作りのプロではないので、ほんの少しここをこのように変えたいなどの作業にすら、どうすればそれを実現できるのかを逐一調べるという技術的な苦労も生じて、そんなことをしているうちに、間もなく旧サイトになる現サイトのユーザビリティーも向上させたくなる……という、「気づく人は気づくが、気づかない人は気づかないであろう作業」に時間を費やしてもいた。
新サイトを立ち上げるといっても現サイトにはかなりのコンテンツがあってそのまま残すので、なるべく訪れる人に使いやすさ・見やすさを提供したかった。また、このサイトでは途中ブログサービスの引越しをしたために表示の乱れや、サムネ画像が(自分の指定した画像があったにも関わらず)一様に昔のブログサービスの「記事内で使用した絵文字」になってしまう……というガッカリな事態もあって、自分が気に入らないところは最低限、直しておきたかった(記事数が多い関係でこれらの作業が大変だったのであるが)。

作業しながら思ったことだが、これは「引越しする家をきれいに掃除しますか、それとも、どうせ新しい家に住むのだからとそのまま去りますか」というテーマとやや似ている気がした。
象徴的に考えてみるのだが、その家は取り壊しになるので物理的には掃除は意味ないというシチュエーションがあるとする。それでも、自分の気持ちとして去る場所を整えたいかどうか。そこには性格や採用しているポリシーが表れるな、と(どちらがいい・悪いという話ではない)。

最近の愛しき夢、カラスさん

ここで唐突に、先日見た夢の話。

過去記事からご覧になっている方にはおなじみだが、私は夢見がとても鮮明で、明晰夢(夢の中で、夢と気づいている自覚があり、ある程度夢をコントロールできる体験)なども見る。

2021年1月中旬に、◇「くちばしの折れたカラスの夢と変容」で、カラスの夢と、私がカラス好きなことを述べたが、

つい先日、心に残るカラスの夢を見た。あまりに楽しかった。

夢の中では、あらゆる生物とコミュニケーションができ、人間には「動きがない」ような印象で見られがちな植物たちでさえ、その活発な生命の躍動を見せてくれる。
夢をあまり覚えていないという人には意外なことかもしれないが、それらの体験は物質的現実の経験に対して遜色がないどころか、それ以上に鮮明だ。

今回のカラスの夢では、くちばしの細いハシボソガラスに見えるカラスが、銀色に輝く細い鎖のアクセサリーをお気に入りとし、くちばしにくわえていた。大きさとしては人間のネックレスほどはなく、ブレスレットやアンクレットくらいの輪っか状のものだ。

一度そのカラスが銀の鎖を落としたので、私はそれを届けてあげた。
カラスは再び銀の鎖をくちばしにくわえてくつろぎ、その姿がとてもかわいかった。そして、通常のカラスなら見ることのない姿だと思うが、あおむけになって、地面のやや段差のようになっているところにまるで枕を使うように頭をあずけ、うっとりと休息していた。

私はそっと近くまで行ってそのカラスを観察した。
羽根の一本一本まで細かくじっくり見ることができ、そんなに近くで観察できることに私は有頂天だった。
けれども、カラスをびっくりさせないか、脅かしてしまわないか細心の注意を払ってもいた。

そのときカラスはリラックスして少し目を細めていたのだが、そんな心配をしている私のことを、急にぱっと目を見開いて眺めたのだ。

そのときカラスの顔の形は心なしかハート型に見え、目はくっきりと黒々とまるく輝いていて、とても印象的だった。

私は、その姿もよく見たい! と思い、目を凝らした。

そのときだ。
外界の(物質世界の)音により、私は目が覚めてしまったのだ。

私はあのカラスをもう一度見たくて、なるべく意識を沈み込ませ目を閉じてアクセスを試みたが、イメージを再現させてももう戻ることはできなかった(見た夢に戻るために、これでうまくいくこともある)。

だけどこの夢の体験は本当に楽しくて、普段そこまでの至近距離でつぶさに野鳥を観察することはなかったから、思い返してもうれしくてたまらないのである。

★その後まもなく、このとき取り組んでいた新サイトはスタートしました。

★関連記事:「秋の美しさと新ブログ、古くなった自己像を着替えること」


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