死や喪失という幻想の循環から抜ける

死も、喪失もない世界とはどんなものだろうと考えたことはあるだろうか。
まさかあなたが実際に、そのような現実を生きられるとは、生きているとは、思ってみたことはあるだろうか。

はじめに(スピリチュアリティーについてこの頃思うこと)

精神世界と呼ばれる分野で長年活動し続けてきた私だが、スピリチュアリティーやスピリチュアルという言葉を日本語に訳すと、「精神性・霊性」や「霊的な」という語が該当するものの、日本語に訳してもなお現代ではぴんとくる表現になり切れていない印象がある。
ときにはこの精神性、霊性といったものが一見人々の日常から離脱していて、スピリチュアルという語はただの異色の趣味とか、娯楽として一時的に消費尽くすもののように扱われていることもある。
「生命の本質、自然なもの」として捉えられず、日常の一環というより好奇の目を向ける「不思議」「超常」としての見方に偏るとしたらもったいないことだ。もしくは妄信、逃避の一種などの先入観で眺めてしまう場合もあるのだろう。

とはいえ「一見」と書いたのは、表立って主張はしないけれど自身の生活の中でスピリチュアリティーを(スピリチュアリティーという言葉を用いることはなかったとしても)重んじている人は、実は多くいると思っているからだ。
なぜなら、私たちはスピリチュアリティーと自己とを切り離すことはできない。私たちはそれと離れて生きられない。
言い換えると、私たちという存在について知ることがスピリチュアリティーの道なのだ。私たちの存在自体が、「この世界」から見れば霊的で精神的なのだから。

さて、私自身、つい最近までこうした「根底的な意味での」スピリチュアリティーの道を歩み続けることは確信しながらも、いち個人としてのごくありきたりな自分の人生のイメージ、いわば今後はこんなことをして、こんな風に生きていくのかな……などの考えを漠然と思い描くことは時折あった。

それが、どんどん霧が晴れるように「ああ私の意識を向けるところはそれではない」「全くそこではない」と気づいてしまった。今年、2022年に入ってから認識がますますクリアーになっていく変化が加速している。これは内的変化なのだが、これまで「知っていた」「理解していた」と思っていたことがさらにくっきりと見えてきて不動になり、確定し、それだけが土台になるのだ。「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」といった疑念の余地はもう、とうに無い。

その変化に沿いつつこうして提供する記事のテーマやトピック自体は「新しくない」。たとえば、過去の私の講座や記事等に親しんだことのある人からすれば、すでに一緒に学んだことがあったり、なじみのあるテーマだったりするだろう。
けれども、繰り返しのように見える学習が大切になることがある。
かつて、そのときはそのときなりに「確かにわかっている」と思ったことでも、学び続けることでさらに深部に至り、「こういうことだったのか!」と驚く発見があるからだ。私たちはいつでも「自分のわかっている範囲でしかわかっていない」から、認識が広がると別の次元から同じものを理解し直すことになる。

以下の内容も、それに該当する。
人間にとって疑いようのない自明の事実であるかのように扱われている誕生と死、有限の生命や喪失といった概念についてものの見方を改めることは、あなたの存在を「知る(思い出す)」ために必須である。

これをただ読むのではなく、自分の中で消化し、わからないところがあれば内に問いかけてほしい。あなたは答えを知っていて、あなたが受け入れると決めたときにそれは意味を返すだろう。

変化と、雪解けのたとえ

先程ふれたように、内側の根本的変化を、静かにけれども確実に培い、準備を固めていく……という期間がだんだん終わりを迎えるのを実感している。
水面下での取り組みは、「目に見えるもの」「形として認識できるもの」に価値を置きがちな姿勢からすると「成果」として捉えづらいだろう。しかしあなたがひとたび、自身の「内」こそが経験の源であり、現実の創造の場なのだと気がついたら、「形に取り組むのではない取り組み」を着実に進めてきたはずだ。
この世界を「リアルだ」と感じている知覚の中では時折、行きつ戻りつしているかのように思えることもあっただろうけれども。

あなたの内には優れた導き手がいる。あなた自身が外に映し出した「反映」に注意を逸らし、その像(経験する事象)に目を奪われ、あたかもそちらに実体があるかのように「経験に自分を合わせる」という選択をする度、内にある導き手は修正を促してきた。内なる声を通して、あなたの深い感覚を通して、あるいは眠っている間の夢の中で。導きは、絶え間なくあなたに呼びかけ続けた。
あなた自身である「真実を知っている者」はそのようにあなたに語りかけ、学習して作った「これが私だ(そして、これが世界だ)と思うイメージ」に制限されていないあなた自身の視点を伝える。
真のアイデンティティーに基づくその視点、そのものの見方だけをあなたが用いて、それ以外のものを「自身の作った幻想である」と見極められるようになるまで。

そうした道のりに伴う内なる鍛錬の成果を知ることは、雪解けのときに似ている。
気がつくと空気の温度はゆるみ、地もほんわかとあたたかく土の表面をのぞかせて、光はきらきらと春の輝きに変わっている。
あなたは知る。固く凍り付いて死んだように見えていたものも、変化しながら生きていた。生命はそのままあったのだ。折々の変化の経験は生命の喪失ではなく「見え方の変化」にすぎなかった。
でも、もし、変化の一部を切り取ってその部分だけを眺めれば、喪失や死があるのだと信じ込むことも可能だろう。ただし雪解けを知っているあなたが喪失や死を信じるためには、自身の知識を否定し、意図的な忘却の中でそれが「無い」かのように自己を騙さなければならない。

あり続けるものを「無い」とする。これがどんな無理をあなたに強いるか、想像できるだろうか?

死ぬこと、喪失が「あって当たり前」の常識に与している間、私たちはこの「本当は知っている真実を曲げるという無理」の負担を自分に強い続ける。自身の存在の根本、源を見ないようにしなければならない。
その結果、自分は生まれたということ、死ぬこと、有限の肉体が自分なのだという自己像……などの「架空の思考」を事実として受け入れ、その通りに保ち続ける。

強く信じた観念は形を持ち、信じている者にとっての実体験、世界となる。

同じものしか存在しないことを思い出す

すでに「私という存在は体ではない」と自覚している人もいるだろうから、ここからは、もう一歩踏み込んだおさらいを一緒にしていこう。

私たちは別々の、個々に境界のある、孤立可能な多数の存在だという幻想をよく学んだ。これはおのずと「有限であること」を思い知らせた。
この定義のもとでは、あなたは世界や宇宙に影響を与えることなく「ひとりで考える」ことができるし、あなたが何をどう見るかに関係なく「他者」は各々が独自に考え、活動していることになる。

この定義を信じることによって、あなた自身そして他者や世界は、あなたの経験上その通りのものになった。
各々が別々のものであるならば、何かを喪失することや個々の死という概念も可能になるし、そのような体験には嘆きや苦しみを伴い得る。ある者が別の者を害することも可能だし、誰かが失えば他の誰かが得るという考えや、奪うという考えも意味を持つ。
定義を採用している者にとって、それらは「自分の外に展開している事実」として経験される。何が本当の「原因」かを思い出さなければ、信じていることを体験し、それをまた信じるという循環になる。

あなたが自分のことを「たくさんの存在によって構成されている世界のひとかけら」だと信じれば、あなたの体験はそれをしっかりと裏付ける。
どれかのかけらが、別のどれかよりも強くて力を持つという考えも生まれるし、あるかけらは他のかけらから自分を「どう守ろうか」と考えるかもしれない。それらは個々の別々のものなのだから、仕方ない。調和や平和を実現したければ取引や妥協を繰り返して共存のための知恵を絞るかもしれない。

ここでひとつ、問わなければならないのは、その基盤となる観念が間違っていたら? ということだ。つまり、幻想を「土台」にしていたら、そこから生まれる発想もまた幻想だ。

真の原因に戻ろう。
こうしたすべての経験が可能になるためには、あなたが「自分とは何か」を忘れていなければならない。自分が何であり、どこにいて何をしているのかも本当はわかっていないという「謎」を作らなければならないのだ。
答えを探すあなたは、世界(自身の体を含む外側・他者・現象など)に問いかけ続けている。
「私は、何ですか?」「私を定義してください」

さぁ、この誤りがもう、あなたには明確にわかっているだろうか。

誤りの循環の輪を断ち切り、正しい原因のもとで他者や世界を見る

何が誤り(錯覚・幻想)で、何が本当の原因なのかを確かめられるように、この記事ですでに用いた表現を引き合いに出しながら、簡潔に「真の自己に沿ったものの見方」を回答していこう。まず、

ここから先は

2,493字

¥ 1,300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?