直接知と、魔法に満ちた人生

あなたが、この人生という夢を見ている存在だと気づき、夢の中の登場人物ではない「私(実在する私)」に意識を置くようになると、葛藤がなくなり「選択肢」が消えていく。
それは、恐れがなくなることで迷いが生じなくなると言い換えてもよくて、直観の通りに瞬間瞬間を生きるということだ。

誰もの内に「知っている自己」がいて、その自己から逸れる考えをいくらかでも「リアル」だと思い込まなければ、迷いは生じない。
「ただ知っている」という状態から生きることができる。

私のこれまでの記事の多くで「未知」に開くことを伝えているのは、私たちが普段「自分と思っている自分」と、その「知っている自己」との間にギャップがあるからだ。分裂が生じているからだ。
一方で、その自己はあなたの内に常にあり続けるので、直観や、愛に基づく「なぜか知っている」という感覚で、あなたはそれを受け取っている。

私たちがその感覚を疑えば疑うほど、人生は複雑になる。
選択肢の間で、迷うことになる。

私は今、直接知をより人生に適用することに焦点をあてている。
ものごとによってはまだ選択肢があると感じることのできる段階にいるが、愛と恐れの間で選択していること、選択肢は実質二種類しかないことを認識しているため、愛と恐れのどちらが真実かを問えば「選択肢は消える」ことが明らかだ。

つまり、内にある「ただ知っている」自己を百パーセント受け入れるあり方に近づいているのだが、そのときに「一縷の抵抗」になるものが残っていたことがわかった。
それは恐れというほど重々しくないけれど、でもやはり、恐れの一形態には違いない。

何だと思う?

「照れ」だ。

魔法に満ちた人生を拒絶する、大人の考え

私たちの多くが学んできた常識的な枠組みの中には、奇跡が入り込む余地がないし、人生は魔法に満ちているとは言えない。

それは作られた定義であり、真実ではないのだが、そのような定義を信じてしまうと、定義の外にある「良すぎる話」は拒絶し、疑うようになる。
そんなことを信じるのは「ウブすぎる」「恥ずかしい」という抵抗(恐れ)が出てくる。

子どもの頃ワクワクしたおとぎ話や、自由な想像力に、さよなら。
夢見ることはやめて、現実的になって!

そうやって自分を条件付けし、「これくらいならゆるされる」と見なした、狭い箱の中に制限してきた経験はないだろうか。

真の自己そのものであることへの抵抗を、手放す

ところが、スピリチュアルな観点から「自分とは何なのか」がわかってくると、失ったと思っていた「Sense of Wonder」が蘇り、その感覚を持ったまま生きることが正当だと知る。

人生は本当に魔法に満ちているのだ。
私たちが考えられるよりもずっと、神の愛と創造性は大きい。

それと一体になるとき、明らかにそれはあなたが望んでいることなのだが、先に述べたような「一縷の抵抗」が出てくることがある。

なぜならあなたが神とひとつであることに戻るとき、真の自己になるとき、発見する状態とは、

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