形と同一化せず、スピリットであると自覚して生きること

美しく精巧な自然界を観察しながら、思う。
私たちは見える箇所から学ぶ「手がかり」を見つけることはできるが、答えそのものを得るわけではない。見える部分だけで物事を判断するのは、本当に知るということではない。

たとえば私たちは自分の体のことですら、全部は知らない。明確にわかっていることはとても少ないと言うべきだろう。
専門家として体の仕組みや機能の詳細な説明ができる人はいるが、現段階で判明している部分から、そうだと理解されている中でのものの見方であり、いつでも新しい発見や例外が出てくる。

「海とは何か」と言われて、海のすべてを知り尽くして説明できる人は誰もいない。
「地球が好きです」と言うときに、どの地球を好きだと思うのかを「形」のレベルで捉えているのなら、地球という天体にも様々な時期や側面があり、私たちが知っている地球、想像している地球とはるかに異なる地球が存在していることも認識した方がいい。
知っている範囲だけを参照して、「これが地球です」なんて言えないのだ。

あなたが何かを、誰かを、「形のレベル」で愛したら、形は必ず変わるし、いつかあなたの前から去ってもいくだろう。
あなたが何かをどんなに大切にしても、気に入っていても、形としてのそれは変化し朽ちていく。

そのようにとても愛していた対象が変化したり、形(体や物質)として存在しなくなったりしたとき、
「取り去られた」「奪われてしまった」「置き去りにされてしまった」と、感じたことはないだろうか。

もし今もその傾向があるならば、そんなあり方にはサヨナラしよう。
その見方、感じ方は、本質を無視した「幻想」だからだ。

「形」への囚われは幻想の産物

たとえば私は自然界の様子を楽しむし、生き物たちの興味深く素晴らしい姿に和む。体験している自然界の形態の妙を楽しみ、学び、愛おしく思う。

けれども、それらに執着したならばどうだろう。
言うまでもなく、自然界は見かけ上の変化も喪失も体験させてくれる。

青々としていた葉っぱは、枯れて落ちる。かぐわしい匂いで色鮮やかに咲いていた花は、しおれる。どんなに愛し、家族と思っていた生き物も、やがては身を横たえる。

自然は残酷だ、人生とは悲しいものだ、何ひとつとどめておけない——そう嘆く前に、以下のことを確認してみようではないか。

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