夢の完成に向けて

したいことはあるけれど、する必要があることは何もなくなったように感じている今日この頃。それはつまり、気持ちの上で「自由に、こうしたい!」と思うことはあるけれど、「しなければならないこと、重圧」を何も感じてないという意味。
そんな中、来月の講座(12月13日「ひとつの私、全的自己」)はとても楽しみにしている。noteの記事を購入してくれている人であれ、そうでない人であれ、久々に直に対面して一緒の場をクリエイトできる機会だものね。

このごろの記事では、新しい見地からのあれこれを伝えているけど、個人的にぽかーんとして、「そうだったか!」との感慨がなかなか消えないのは、この現実も紛れもない夢だったということ。

私は自分の持って生まれた性質が関係して、生涯を通してずっと夢(眠っている間に見る夢)への理解を深めざるをえなかったし、その内容を教えてもきたというのに、今頃になって、この現実もまったく同様に夢だということを百パーセント確信したのだった。
これまでは、わずか数パーセントは「比喩的に」という余地を残して、ほかの夢との差別化をして「この現実もまた夢ですよ」と教えていた。

でも、今は違う。

まったく同じく夢だったということを(あれだけ夢に親しんでおきながら)つい最近まで完全には納得していなかったなんて、ある意味「逆奇跡」だ。
どうしたら、そんなことができたんだろう?

この現実はそれだけ「一見、強固」で「一見、自分との繋がりが見えない、自己の意識の産物には見えない」夢だと言える。

夢の中で、夢だということを自覚したまま活動する「明晰夢」のオンライン講座を受講してくれた方は、ぜひその内容を思い出してもらいたい。それはそのままこの現実に対する内容であるからだ。
必ずしも明晰夢を見る「技術」を養ってもらう必要があるわけではないけれど、経験したことがある人はそれがどんなものだったかを思い出すことで、この現実の扱い方も把握することができる。
だって、同じだから。

ところで明晰夢の中でも自分の目的がはっきりしていないと、たいしたことはできない。何回か明晰夢を経験していると、それがわかると思う。

この現実も同様だ。
あなたに目的があってこそ、この夢をどう完成させようとしているかがわかるけれど、ポイントは、あなたが「普段自分だと思って自覚している自分の思考」では、それをわかっていないというところだ。

制限のない自己が「何を見せてくれるか」を邪魔しない生き方

「わかっている自己」を私たちの「本体」と呼ぶと、それが何であるかに直にふれるようになったとき、脳というか、自分の意識の「容量に制限があるように感じられる部分」がスパークしそうになる。

とてもじゃないけど、その広大なエネルギーが「この自分」におさまりきらないように感じられるのだ。
その点でも、「自分は物理的境界のある肉体だ」という観念は釣り合わなくなる。無理がある。

このとき、自分の本体、知っている自己を「遮らない」ことを学ぶと、それの見せてくれるものと共に流れることができるようになる。
あなたにとっては「行動」もその一環として生じるが、自分で努力して行う行動ではなく「自然とそうしている」という風に感じられる。

およそ十年ほど前だったと思うが、私は未来へ向けての願いややりたいことが特になく「ただ見ていたい」という気持ちになっていたことがあった。

その頃は(スピリチュアリティーについて学んできた理解にも関わらず)、そうはいっても生きている以上は何かを「する」必要があるのだという観念から抜け切れておらず、この「ただ見ていたい」という強いけれども漠然とした望みには、戸惑う気持ちがあった。

でも、今なら、それが本質的に何を示している感覚だったのかがわかる。

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