私たちの幻想中毒

自分の外に見えるものに「因」を与えようとするとき、私たちはみんな幻想中毒者になっている。
自分を姿見に映して「この映像が気に入らないんです!」と言うのと一緒、映し出された映像の方に取り組むことで何かを変えられると信じている。

そこに「実体はないよ!」といくら自分に言い聞かせても、コロッと忘れ、繰り返し映像を本物だと思う。
そして幾度も幾度も、間違った方法を実行し、そこに期待をかける。

映し出された映像に影響されるのは当たり前だと思い、映像に自分を動かし得る要因が宿っていると信じる。
映し出された映像――そこには、あなたに見える世界と、あなた自身の体も含まれる。

状況や体が自分の内的状態の「決定権」を握っていると思うから、そこに「あなたを幸せにするための」重圧をかける。
状況の様子や体の調子いかんで気分が上がり下がりするのは、当然のことと見なされる。

すると、バッド・ループから抜け出す方法はない。
束の間自分を騙し、いい気分になることは可能だが、しばらくすると再び、厳しい現実が立ちはだかる。

幸せは不幸があるからこそ味わえるし、喜びは苦しみがあるから喜びなんだと「苦しみを肯定」し、それが生きることだと自分を納得させることが常識になっていく。

ところで、それはあなたの望んでいること?
もし、そうでないならば、誰がそれを強いていると思っているの?

真剣にこれに回答しよう。
なぜならそこに、あなたの不信と、絶望と、怒りや悲しみの源があることがわかるからだ。
少なくとも、あなたは「今」それを信じているのだ。

意味があると信じている限り、同じことを繰り返す

内にある「物質的には無形」の概念を、形として体験するのがこの世界だ。
あなたはこのことを意識的に度々思い出す必要がある。

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