能動的にこの世を使うこと【目覚め】

自分の人生を振り返ったときに、私は果たして能動的にこの人生を使ってきたのかと真に問えば、少なくとも自覚的にはそうではなかった感じがする。

もちろんこうした、精神世界やスピリチュアルと呼ばれる分野の理解と造詣を深めてきた私は、自分の体験を意識的に扱おうとはしてきた。
人生を能動的に理解しようとはしてきた。

けれども自分の人生の状況や体験そのものについては「仕方なく」、もうここに生きているのだから逃れようがないというような気分で向き合ってきたことが多く、それは能動というより受動の姿勢だ。

「私がやりたくて、これをやっている」と地球体験そのものについて思おうとはしてきたが、それを実感できる瞬間がときどきあったとはいえ、等身大の私の基本的な実感は「仕方なくやっている」が依然として優勢だった。

すると、私の人生で体験する状況についても、
「あきらめたいが、あきらめると負けなので、心を奮い立たせて自己の内を見つめる」
というような、何か課された宿題のようなものではなかったか。

そうなると人生体験の基本は「苦」のようで、ほんとはこの人生から逃れたいのに、逃れられないという無力感から取り組んでいたようにも思える。

これはひとつの観点からの感想であって、決して根底の私の真実がそうであるとか、いつもそのように感じていたという意味ではない。
ただ、何が自分の人生の見方として優勢だったかを考えれば……と心当たるところではあるのだ。

言い換えると、魂の自分の視点と、この世を生きている只中の自分との視点の「ギャップ」があって、自分自身がひとつになればもはやそのような感想は生まれないだろう。

今はほんとにわずかながらの歩みであっても、そのギャップがどんどん少なくなる方向に進んでる実感があって、そう信じる義務があるからではなく、自然な理解として、
「私は体験したいことを体験している創造者であり、もし、その内容が本心からずれているのなら、いくらでも本心に沿った体験に変えられる」ということが心に響き渡る真実となっている。

ただ、このときにひとつ大切なコツがあって、


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