一喜一憂を継続するか、それとも?

人生を「苦しみのゲーム」や「痛みの劇」としてプレイすることをやめたいなら、「あること」をあきらめなければならない。
あきらめると言っても、「あること」の本質をあなたがしっかり理解したら自ら手放すに違いない。

えっ、大丈夫、まにあってまーす、私の人生は苦しみのゲームでも痛みの劇でもないですから! と思える人でも、よくよく観察してみよう。あなたの人生で「よろこび」と太鼓判を押していたものがいつの間にか「苦しみ」や「悲しみ」や「痛み」に転じていた経験はないか。

ワクワク、ドキドキ、楽しそう! 追いかける甲斐のある達成と、それへの情熱がほとばしるこの世界! という何かの広告のような人生モデルに踊らされて、競争したり、自分の価値をはかりにかけてみたり。それもこれも「楽しんで」やっているつもりがいつの間にか息切れ、心の中では気づけば飢えていて、これを「すれば」心の隙間を埋められるかと、また次の行動を探してる……と、ここまで極端でなくても、私たちが「よろこびを得るためにやっている」「こうする先にはよろこびがある」と信じていることの多くが苦しみや痛みも提供してくれているということを、あなたもうすうす、またははっきりと気がついているのではないだろうか。

といって、よろこびのない状態では私たちは生きられない。よろこびのまったくない人生に耐えられる者はいないだろう。
光合成する植物が光へ自らを向けるように、私たちはよろこびに向かうようにできている。
では、なぜ? 冷静に考えたらなぜ、よろこびを求めて苦しみを得るという「あるものを入れると、違うものが出てくる五次元ボックス」みたいなことが起きているのだろうか。

そんな一見すると「変」なことを何度繰り返しても、これこそが人間ドラマだ! といわんばかりに感動モノとして上演され続ける劇「人生」。 
いやいや、ちょっと待って、何かがおかしくないか? 
そんな疑問を持ち始めたら、あなたはこれまでの枠から出たいということ、出口がどこかにあると気づいたということだ。

言うなれば、出口は隠されていなかった。いつでもそこにあった。だけど、あなたが出ようとしなかった。この劇のシリーズに夢中になっていたからだ。

よろこびの「模造品」

何かを得るなら、苦労はつきもの。苦労をした分だけよろこびもひとしお。
――この種の価値観に依存すると、苦労や痛みや、激しめのアップダウンがないとよろこびは感じられないという風に「ジェットコースターに乗り続けたい」欲望を持つようになり、自分でドラマを起こすことになる。
いや、私はジェットコースター体験なんて求めないけどね、穏やかに平和に生きたいね……という場合でも、平和な日々を実現させる中で、心理的動揺や退屈に気づき、何かしらそれをブレイクスルーしそうな刺激を探すこともある。
そうだとして、それで、どこがいけない? 
いや、いけなくはない。同じゲーム・劇を続けたいなら、むしろ推奨できるパターンだ。go on!

そもそも、こうした志向も先に述べた通り、よろこびを求める自然な動きの延長だとも言える。
ただし、よろこびが一時的な薬のような効果になっていて、切れるとまた次のよろこびを求めるとなると、どうだろう?
それが「無い」ときの痛み、苦しみ、飢えが平常の状態で、だから薬の切れている状態を作らないようにしたいんだということになる。

よろこびを求めること自体は自然であると伝えたのに、これはどういうことだろう? 私たちは生まれながらに痛み、苦しみ、飢えているのか?

そうではない。
単純に言うなら、こういう場合に追いかけている「よろこび」は、あなたがほしいと思っているものの「模造品」でしかないのだ。いや、模造すらできていないのかもしれない。

そして「ある変化」を起こすまでは、あなたはずっと「よろこびをもたらすと信じて、自分を満足させないよろこびの模造品を追いかける」ことになるのだ。

自分が何をしているかの見分け方

私たちは多くの場合、「これだけは」「今度こそは」本当のよろこびであると信じてそうでないものを追いかけるので、ここで確実な見分け方をお伝えしよう。

これは見分け方であると同時に根本的な「答え」でもあるので、先に書いた「ある変化」を促さざるをえない。もし、あなたがまだその変化を起こしていなければね。
Are you ready?

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