体験の出し惜しみをしないこと・内から湧く道

この間の旅行から約一ヶ月しか空けずに、また旅行をしてきた。近年の私にこれはまるでなかったことで(注:社会情勢とは関係なく、かなり前から私はかつてほど旅行に魅力を感じなくなっていた)、しかも自主的にそうしたということで、すでに起きた変化と「動き」を感じている。動き……そう、内的動きだ。
この体験を通して私が新たに発見したことを共有しよう。

あなたは、何かをするときに「そこまでの価値はないかもしれない」とか、「失敗したくない」とか、「平和な(少なくとも常日頃なじんでいる)生活に安住していたい」「余計なストレスを感じたくない」などの理由で、心にキラッと光るアイディアを見送ってしまうことはないかな?
自分ではそれを特別「守り」の姿勢だとは思ってないかもしれない。ただ、すっかり自分の世界を築いていて、そのお城の中で暮らすのが心地いいから出たくない、そんな平和な感覚を大切にしているだけなのかもしれない。
そうして結果としては、新しい体験を遠ざけたくなることはないかな?

強く意図して何かを遠ざけてるという実感はないので、ああ、以前より自分はこの分野に関心が薄れたなとか、全然ときめかなくなったなと思うくらいで日々がgo on、何も問題は感じずにいる可能性がある。
ところが、あるとき思いがけず半ば押されるようにして、違った体験の中に入ってみることになる。本人としては、これは参加せざるをえないと感じる何かがやってくる。
その体験の「結果」が気に入るかどうか? 期待通りだったか否か? そこはあまり関係がなく、一足踏み出したら施錠は解かれ、もう別の流れの中にいるのだ。誰の意図によって? あなたの深い意図によって!

あなたの体験は「常に」進行しているが、「体験の選り好み」をしすぎると、あなた自身が本当は望んでいて呼び合っている体験を遠ざけてしまう。
ある体験の中に、あなたのほしいものがあるかもしれないのに、入口だけで判断してはじいてしまうのだ。

どのような体験もあなたの「内から」湧き出ているので、今回のタイトルは「体験の出し惜しみをしないこと」という表現にした。
つまり、ある体験を遠ざけるということは、「外から」何かを取り込むことを避けているように見えるが、実は「内から」表現する・アウトプットするのを避けているということなのだ。

安住することで鈍るもの

さて、私の場合は◇「高齢者やネットになじみの薄い人にスマホやPCの使い方をわかりやすく説明する方法【コミュニケーション】」(2022年10月19日の記事)内で言及した親族との旅行がまず、降って湧いたように決まった。
このときは諸々の理由で、たとえ途中で気が変わっても参加を取り消すわけにはいかない! と感じており、普段とは異なる心構えでの決行だった。
これに参加したことで様々な気づきがあり、帰宅後はその余波に押されるかのように次の旅行を自分の心の中に思い浮かべていた。どうしても、期間を空けすぎずそうしたいという強い引きがあり、その頃ぱっと目についた旅行は普段なら決して選ばない団体ツアーだった。

ああなるほど、そこで初めての楽しい体験をして先入観が崩れたんだね……と想像する人もいるだろうが、そうではない。
旅行ならではのストレスはあったし、万全のコンディションで臨んだつもりが途中のいっとき体調を崩したし、また、団体旅行の運びそのものについても、自分の感性では「うーん」とか「???」と思うことは度々あった。

しかし、だ。
帰宅後、今回の旅の体験を無理にポジティブに解釈して納得したり、あるいは期待と違っていたなどの「体験に対する点数付け」をしたりする代わりに、自分でも予想外の答えが音なく降ってきた。

もう少し説明すれば、この体験を「よかった・よくなかった」に二分したり、喜んだり落胆したり、満足感の有無を味わったりするのではない、ある思いがすとーんと自分の内に現れたのだ。

それは表層の(日常的に自覚している意識の)自分にとっては意外な思いでもあった。
言葉にすると、こうだ。

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