いいとこ取りは、できないよ【混ぜるな危険】

2023年1月は私には思いがけない展開が続いて、そろそろ月末に差しかかる今になってやっとひと段落といったところだ。
出来事それぞれに一見、脈絡はないかのようだったが、全体的にこの時期を通して私が感じていたことがある。
それは、これまで少しは残していた「別の道」「別の可能性」を洗いざらい破棄することだ。
簡単に言えば、「自分であり続けるか? 否か?」の最終確認を行っていた期間に思える。私に限らず、これに心当たりがある人はいるのでは。

たとえば「自分にはこれが合う」「私はこう生きたい」などの一貫した思いがあなたの心の内にあるとして、その一方で、
「でも、自分自身がやる気になれば、あれも選択・挑戦できるのでは?」
「ああいう生き方は自分には興味がないとずっと感じていたけど、もしかして体験してみたら良いものなのかもしれない。先入観で良さを見逃しているのでは?」
などの疑念を温存している……ということはないだろうか。

つまり、あくまであなたの内面で起こっていることとして、すでに自ら選択している道に焦点を合わせる「ほかに」、ちょっと他の可能性にも賭け金を払っておく……みたいなこと(実際はこれはお金の話ではなくて、あなたの意識内で自分の信念をどこにどれだけ置くかという意味だ)

これをやっていると、あなたの現実にはあなたが内で信じている通りの割合だけの現象が「形として現れ」、自分の信じる真実をまるで外と内とで二分されたような感覚を抱いたままま、あなたはどっちつかずな気持ちで生きることになる。

そう、この記事では「いいとこ取りは、できないよ」という話をする。
特にスピリチュアリティーにおいて「いいとこ取り」をすることはできないどころか、「混ぜるな危険」。結果として、あなたのいたくない立ち位置にいつまでもあなた自身を引き留めることにもなるのだ。

スピリチュアリティーの基盤における「いいとこ取り」ができないわけ

スピリチュアリティー、霊性という観点から言って、その基盤となる概念についてはトータルな選択しかない。「少し信じる」とか「部分的に信じる」ということはできない。

これを定義次第だと議論することは抜きにして、単純なたとえを用いると、あなたが「存在していると同時に存在しない」とか「生きているが部分的に死んでいる」ということが可能だろうか、ということだ。
この意味において、スピリチュアリティーの基盤となる概念については完全に認めているか、でなければ、実は認めていないかのどちらかしかない。

つまり、あなたが自分の内でそれを「少し認めている」「だいぶ信じている」などの「程度」のある見方をしているとき、実際は何が起こっているのかを考えてみよう。

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