真実への恐れ(という笑い話)を解除する

「Oh, my God!」と言いながら、自分の神性(内なる中心)に返る。幻想の中に入り込んでいた自分に驚いて、正気(ひとつの私・神)に戻る。
そんな意味で「Oh, my God!」という表現はふさわしいと私は思う。

誰もが「自分が、自分の現実の創造者である」のだが、自身が創造者であるということを百パーセント受け入れるとき、それが「自分の思う都合のいいことに対してばかりではない」と、自覚することになる。
二極性の観点から見た「良いこと」と「悪いこと」のどちらか一方が自身の創造なのではない。両方だ。すべてだ。

これを認めることを「分離を信じているエゴ」と一体化している自己の部分は嫌がる。抵抗する。
そんなことを認めるよりは、自分にもたらした困難、苦しみ、不利益の原因を「外」に見たいのだ。自分の外に悪や罪があれば、現実として(れっきとした事実として)そうなのだと経験し続けていれば、願望通りにその構図を保っていられる。適宜「誰かが、私にこうしたのだ」と言える。
そしてその目的のために、「外にあるように見える現実」に、悪や罪、何か至らないところを自ら作り続ける。
Hmmm……それって、幸せなのかな? それが本当に、望むことだろうか。

創造者としての自覚を持つことに意識が高い人であっても、他者がどう、世界の(宇宙の)状況がどう、ということを気にしている場合がある。
つまり、「いや、全部だよ。あなたの現実は全部あなたが創造しているよ」と告げられたら、「いいや、これに関してはそんなはずはない」と思う部分を残しているのだ。

もし、そういう自分の気持ちに気づいたら、そんな自分を笑おう。だって、
全部だよ。
あなたはどんなことも創造していないか、あるいは全部を創造しているかのどちらかだ。
部分的な創造というものは無い。

真実への恐れ

私たちは、「願いが叶うこと」を恐れていることがある。
最高のことがまさに実現するということを、願っているふりをしつつ何よりも怖がっているのだ。そして、それを避ける。そうならないようにする。

「真実は耳に痛いものだ」と信じている人がいるかもしれないが、そうではない。
真実は、あなたのあらゆる恐れを「笑い話」に変える。
なぜなら、真実とは神の現実、「ひとつの私」のリアリティーに戻ること、それだけが実在していると受け入れることだからだ。

人為的な、人間のエゴが思い込んだ「神」を信じている人にとっては、この説明を聞いてもなお、恐ろしさが消えないのかもしれない。
でも、私たちの源、真我、ひとつの自己が人間の言葉で表現するなら「愛」や「平和」「調和」「安らぎ」であることをわかっている人にとっては、「そうか。忘れていた。そうだった!」と安堵することだろう。

そうであるのに、なぜ、私たちは度々、「これをどう見るべきか」と恐れの観点から煩悶し、思考をフル回転させ、自分の想定し得る「起こってほしくないこと」をリアルに想像し、場合によってはそれに備え、万全の警戒心を持って物事に臨むのか。

これは一体、どんな狂気なのだろうか(笑)
まるで私たちが恐れの「総催眠状態」にかかっているように思える。

そして、この状態を変えられるのは誰なのだろうか?

分離するということは、偽の自己を信じるということ

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