元に戻っていく感じ(与える側は受け取る側)

書きたいことはその都度浮かんでくるようでいて、綴らずに流れていく日々が続いた。なにせ前回の記事は「すべて完璧であるという視点」、この視点に身を任せていると、能動であって受動であるような、何にも横槍を入れる必要がない感じで、「強い主張」みたいなものがなくなってしまう。

これまでもそういう状態は経験としてあったが、書き手としての私は「書きたい」気持ちを継続して持っているので、このスタンスからの執筆に慣れる必要を感じた。

つまり、「これを!」という強い「言いたいこと」を込めての執筆ばかりでなく、まさに「つれづれなるままに……」、ただ書きたいから書きますね、という姿勢を受容していくことが現時点の私の課題に思えるのだ。

そんな私に今浮かんでいる言葉は「元に戻っていく感じ」。
この場合の「元」とは、自分の本然という意味だ。

人によっては「ありのまま」とか「本来の私」とかの「私を定義する言葉」がうっとうしくて、どれだって全部が私なんだよ! と叫びたくなるような向きもあるかもしれないが、それでもあえて言うならば実際問題、私たちは「自分でないものに慣れていってしまう」ことが多々ある。

それは、このように生きるべき、こう考え感じるべき、このように振る舞うべき……などの思いによって「別の自分」が作られてしまうということだ。
そうした別の自分は「その方がメリットになる」「生きるのに便利である」と信じていなければ必要ないもので、むしろ「信じていたこと」そのものが幻想だった、不要だったのだと気づけば、構築された別の自分も剥がれ落ちていく。

無理がきかない、をいいことと捉えられるか

しかし、別の自分を作ってまで実現しようとした何か、その土台にあった「信じていること(観念)」とそれに基づく世界観がすべて無効になるまでは、完全に解除されるまでは、本然の自分こそをうとましく思って「都合が悪い」とも考えるだろう。
無理する自分、素の状態からかけ離れていく自分を、本人が「望ましい」、または「求められているはずだ」と信じているからだ。

自己内の分裂がなくなり、統一されてくると、そのような無理はきかなくなる。無理する必要がないという理解が訪れていることはもちろんだが、かつてと同じような気分でたとえ無理をしようとしても「無理がきかなくなっている」。

少しくらいなら無理がきくだろうと思って旧習慣に従おうとすると、それは甘いと思い知る。たとえていうなら一歩片足を突っ込んだ瞬間「あ、これは私向きではないのでやめておきますね」と即座に退出する感覚になる。

仕事・様々な活動、社交・人間関係(恋愛を含む)、生活、生き方のすべてにおいてそうなる。
「無理がきかない」――これを、あなたは「いいこと」と捉えられるか。

場合によっては誤解を伴う表現になりそうだが、ある言い方をすれば、あなたにとって「toxic」なものを選ばなくなる、参加しなくなるというわけだ。
(「toxic」とは「有害な」という意味の英語だが、人間関係などに対してはストレスフルな、心の擦り減る……とかの意味にもなる。)
何か特定の状況や環境が、誰もにとって有害であると言いたいのではなく、「あなたにとって」不要であるもの、好まない何かに「あえて、わざわざ」自ら足を踏み入れることをしなくなるという意図だ。

逆に言うと、自己内が分裂していて自分とは何かがわかっていないときには、「その方がいいのかもしれない」「そうすべきかもしれない」と考えて明らかに自分に合っていない、好ましく感じていない状況に自ら選んで参加すると言える。

それどころか、自分に合っていない何かを「望ましい」と信じて欲しがっていることもありえる。
その時点では、「無理がきかなくなる」状態はまさに不都合と感じられるのだ。私は望んでいるのに、私はもっと頑張りたいのに! と。

あなたがもし、自己内を統一していく道を歩んでいるなら、それを徐々に遂げていっているなら、きっと過去を振り返って驚くことがあるはずだ。

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