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小説を読めなかった5年間

友人の年賀状に、「すっかりバカになり、小説を読めなくなりました」とあった。

彼は大学時代の友人で、「文学青年って実在してるんだ」と感心するほどの読書量を誇り、自主参加型の文学ゼミで出会った。彼は文学系の学部生ではなかったのに越境してゼミに参加する熱意を持ち、切り込み方も鋭く、そして印象に残る変態であった。

そんな彼は大学卒業後、教員というお堅い仕事につき、家庭を持った。
去年だったか、その年の年賀状には、マンションを買い、犬を飼いました、とあり、その続きが冒頭の言葉だったのだ。

あの変態かつ頭のキレがよく、ただならざる者だった彼が、所有するマンションのソファーで妻と愛犬に囲まれ曖昧に微笑み「小説が読めなくなった」という姿からは「こうして人は"生活"にのみこまれていくのか」という静かな衝撃と、同時に、ローンを背負い、妻を養い、関係維持に努め、仕事に勤しむ日々の営みの偉大さを感じた。

で、小説が読めない、という話である。
彼の言葉に深く共感した。

というのも、実は私もここ5年ほど小説が読めなくなっていたからである。

きっかけはたぶん出産だ。
産後、自分の時間が減って読書量が減ったのは致し方ないと思う。だが、なぜか、ビジネス書も新書も詩集も絵本も漫画も読めるのに、小説だけは読むことができなかった。

エッセイは2年前から、少しずつ読めるようになった。それでもまだ小説は読めない。

読もうとしても、文字が頭の表面をつるつると滑って、全く内容が入ってこない。

文字を目で追っているのに意味内容がうまく吸収できず、言葉がばらばらとあっちこっちへ飛んでいってしまう感覚。一体わが身に何が起こっているのか。かつては余裕でできていたのに、今はまともに理解することもできない。そんな現実に戸惑っているうちに酷く疲れてしまって、1ページも読み終わらないまま本を閉じることになるのだ。

そんなことを、もうかれこれ5年以上続けていた。

それが最近。

Twitterで「オチが胸糞悪い」と流れてきたエラリイ・クイーンの『災厄の町』を手に取った
ら、なんと、読める!!読めるのだ!!!!!

どうして読めるようになったのだろう。
1人息子も5歳になり、子育ての負担が減ってきたからだろうか。

しかも今のところ読んでいてとても面白いのである。

ただ「小説を読める」だけのことにいたく興奮してしまう。なんせ5年も読めなかったのだ。

結末は胸糞悪いものらしいが、無事読み切ることができたら、嬉しくて泣いてしまうかもしれない。

ところで冒頭の彼の「小説を読めない」がどこまでの症状かわからないけれども、彼も自分の子はいないとはいえ、多くの生徒さんを指導している。

「子供を育てるのに使うエネルギー」と「小説を読むエネルギー」はなにか相関があるのだろうか。それとも、「生活を営むこと」と「物語を味わうこと」が交換関係なのだろうか。

しかし小説以外の物語なら摂取出来ていたのである。

なぜ小説だけが読めなかったのだろう。
不思議なものである。


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