放棄されたコミュニケーションを肯定する方法

【コメントでアイデアを募集しています。】
ざっくりと「これからの社会、すぐ隣にいる人とも価値観が違いすぎて会話による意思の疎通が放棄されて行くんじゃない?」という感覚があったので、その時私たちを囲む繋がりはどのような性質を帯びたものになるのか、私たちはそれをどう受け入れていくべきなのかについて、考えてみようと思います。
何か関係しそうな考えやアイデア、マインドセットなどがあったらコメントで教えてください!

「放棄されたコミュニケーション」というのは、前提となる知識や考え方が違いすぎるが故に相互理解が得られない会話のようなものです。

例としてSNS上の放棄されたコミュニケーションを紹介します。皆さんはYouTubeの動画のコメント欄を見ることはありますか?
見るよ〜って人は多かれ少なかれ、以下のようなやりとりを目にしたことがあるのではないでしょうか?

a「〜は〜だよね。」
b「〜は〜じゃ無いだろ。ばかじゃん笑」
a「本気で言ってるの?やば」
b「反論できないの?負け惜しみ乙」

YouTubeのコメント欄では動画を見に来た沢山の人達が、動画の感想や思ったことを自由に発言しています。
動画によってはそれを見る人の年齢や育った地域、学歴や普段過ごしているコミュニティといったバックグラウンドは多岐に渡り、それぞれがそのバックグラウンドによって異なる常識や普通の感覚を持っています。
それ故に、時々自分の常識や普通の感覚が全く通用しない人同士が出会い、そこで先程のような会話が起こるのです。
先程の会話の例では、以下のような放棄されたコミュニケーションが起こっていると考えます。

a「〜は〜だよね。」
(普通に考えて)
b「〜は〜じゃ無いだろ。」
(普通に考えて)
a「本気で言ってるの?やば」
(こいつとは会話にならねぇ)
b「反論できないの?負け惜しみ乙」
(こいつとは会話にならねぇ)

このような放棄されたコミュニケーションは現状ネットなどの生活のほんの一部で起こっていたり、大した数ではないため問題視されてませんが、これから先どんどん数を増やし、深刻化していくでしょう。

考え方の違うもの同士で衝突が起きるのは当然だ、喧嘩になるのは話し合うことの出来ない未熟者だけだ、と思った方もいると思いますが、本当にそうでしょうか?
これ程までに異なるコミュニティにいる者同士が簡単に集まり、友達のような距離感で会話を交わすことが頻繁に起こる社会はこれまでにありませんでした。
もしも未来に、日常の至る所でこのようなすれちがいが起きるとしたら、その度ごとに私たちは腰を据えて話し合う事ができるでしょうか?

ここまで読んでなんのこっちゃと思った人は、つまりこういうことです。

1. ある人が「インターネットにおける一方通行的な要素の強い発言が、変化しつつあるコミュニケーションの在り方の先進したものである」と考える。
2.その人は「放棄されたコミュニケーション」について意見を下さいとnoteに投稿をする。
3.その投稿を見た人は、結局何が言いたいのか理解できず、「こいつ頭の悪そうな文章書くなー」とか「もっと分かりやすく説明しろよ」とか思う。
4.投稿した人は例え方があまり良くなかったことに気がついたものの、ここまで書いたものを消すのも惜しいと考える。
5.と同時に眠くなってきてもう適当にこの投稿を終わらせてしまおうと考える。

このように、誰かに何かを伝えようとするのはとても難しいことですね

それが、高校時代からの友達との喫煙所での会話のように、だらだらと繰り返し質問と補足を重ねることが出来るものならまだしも、そうでもないと、誰かの言う事をちゃんと理解するのってかな〜り面倒くさい。分かるっしょ?

結論としては今後、本当に多様な価値観とかが許容される世の中になって、本当に誰もが自身の生きる世界を選べるようになっていくと、今僕たちが映画や小説に対してそうしているように、誰もが、他人の発言を、発言者の意図とは関係なく、好き勝手に解釈し、誰かの発言も完全にその人の個人的な文脈を離れた所で評価される世の中になって行くんじゃないかという話。

そこで、みんなはどう思う?そういう世の中で僕たちは、「面と向かって話せる、感覚まで共有できる仲間を大切にするべき」or「最低限の約束を守って、それぞれの現実を自由に生きよう」or「本質的にはこれまでと何も変わらない」etc...
ここまで読んでくれてた人がもしいたら、なんでも良いからコメントしてくれると嬉しいな🙏

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