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PERFECT DAYSを考えて、きなこアイスを頬張る。

「PERFECT DAYSの感想教えてよ。」
これは、そんな一言から始まった。

・光と影の描写が美しかった
・役所広司の涙ってなんでこんなにも人間味を感じるんだろう
・トイレってこんなにもデザインがあるんだ
・太陽と雲で作られる光と色の感じが絶妙だったときの感動と似てる
・単調だったけど、問いがいくつも生まれて、他の人の感想も聞きたくなる

そんなことを考えてたらお腹が空いて
ディーアンドデルカでライスボウルを食べて
それでもお腹が空いてたからアイスを買って
幸せ気分でお家に帰りました。

ちゃんちゃん。

もちろん、これだけで送って良かったのだけれど、古川さんに感想を送るのに、どんな文章にしようかと終始考えていた私は

ちょっとカッコつけて「静かだけど、確かにそこにある。そんな映画でした。」なんてことを書こうとしたりして。笑

いやいや、私はこの映画を見ていて何が頭に浮かんだのか。どんなことを感じたのか。

とりあえず、覚えたての表現でまとめようとせずに書き出してみようと、頭に浮かんだ文字をひたすらスマホのメモに書き出していく。

ということで、ここからは説明したいための文章ではなく、自分の感じたことのメモなので色々悪しからず。


トイレの清掃は汚い仕事なのか。

夜明けのはざまを思い出す。
葬儀屋ディレクターとして死を扱う仕事を
言葉を選ばずに書けば、「階層の低い」仕事に見られるということが印象に残っている。

では、トイレ清掃の仕事はどうだろうか。

綺麗で清潔に使えている裏側には誰かの存在がいる、それは至極当たり前のことである。

誰かのおかげで綺麗に使えているトイレを掃除する仕事は果たして汚い仕事なのか。  

そんなこと言っても、自分がトイレの掃除を積極的に職業としたいのかといえば私はきっとしない。

胸を張って人に言えるかどうかを想像してみても、私はもしかしたら隠すことを選んでしまう気がする。

今私ができることがあるとしたら、
思い込みを少しだけでも外すことだけ。

トイレ清掃をどこかで少しバカにしていたことを自覚し、反射的に思い浮かぶバイアスの思考を止めることだけ。

〇〇したから、なんなのか。

笑顔でいると幸福度があがる
マインドフルネスをすると幸福度があがる
人と繋がってると幸福度があがる

確かにそうなのかもしれない。
けど、〇〇をすると。を裏返せば、
〇〇をしないと幸せではない。の計算式が出てきてしまうように思う。

これは私が捻くれているのだろか。

あることとないこと。

そんなことを考えていると、次第に何かと比較して幸せだと確認しようとしている自分がいることに思い至る。

自分は幸せである!と自分で認めてあげるだけで良いのに、周りからの評価や世間の基準に当てはめて比べてしまうから、本当は幸せなのに幸せじゃなくなったりすることがある気がする。

これは、ある。
これは、ない。
これは、ある。
これは、ない。

これも、ない。
あれも、ない。
それも、ない。

ない。ない。ない。

そもそも、ないことは悪いことなのだろうか。
あることが良いことなのだろうか。

そして、先日のさゆちゃんとの会話を思い出す。

デンマークに1年行っていたということは、
その年に見たかった日本の花火を見れていないということ。

一見デンマークに行くと聞けばドラマティックに聞こえるし羨ましがられるもする。

けど、デンマークに行けること=幸せだとは何も限らないのだ。

相手をどの視点で切り取るか。

目が見えない人、耳が聞こえない人は
普通ではない、かわいそうな人なのだろうか?

病気になってしまった人は、不幸な人なのだろうか?

ここらへんは、急に具合が悪くなる。の話が頭をよぎる。

そういえば潰瘍性大腸炎になったとき、100%病人として扱われるのが嫌すぎて、必要以上に人に言わなかったし、説明したとしても、めちゃくちゃ軽い感じで言ってたことを思い出す。

通常、自分の見えてる範囲、想像できる範囲でやり取りしてしまうけど、見えてない範囲を想像して他者と対峙するのは難しい。

どこまでだって想像できてしまうし、
相手のことを想像しだしたらキリがない。

ただ、自分の見えてる範囲じゃない、自分が瞬間的に判断したことじゃない何かがその人の背景にあるのかもしれない。
と思っておくことは忘れずにいたい。

どこまでいったら満足なのか。

ここまでつらつらと書き続けて、ふと立ち止まる。

はて、こんなこと考えるのは私だけなのだろうか?

いや、そうだったとして、いったい何を気にしているのだろうか。

今、私がそう感じている。ということ。
それが全てであるはずなのに、自分一人だけではないことを確認して安心しようとするこれは一体なんなのだろうか。

みんなと一緒であることを嫌がるのに
みんなと違うことを恐れるのはなぜなんだろうか。

きっと、私はまだ自分の人生を充分である!とは到底思えないのかもしれない。

では、もうすでに充分であると本当の意味で『わかる』には、どうしたらいいのだろうか。

私は充分幸せである!と常に呪文のように唱えて刷り込めば良いのだろうか。

とりあえず”きなこアイス”が美味しい。

いやいや、
またゴチャゴチャ考え始めてるけど、

さっき食べたきなこアイスのことを思い返してみよう。

あの瞬間、私は間違いなく「はあ、幸せ〜」と思ってた。

そして、あてもなく歩いて行き着いたコインランドリーの椅子に座って

睡魔に襲われて、まどろんでいたあの瞬間も
とんでもなく平和だと感じていた。

それだけでもう充分幸せって思っていいんじゃなかろうか。

ここら辺で考えるもの疲れてきたし、今日のところは、そう結論づけて終わりにしよう。

おわりに。

とりあえず書きだしてみたけど、こんな、まとまらない文章を送って良いものだろうか。

そもそも、ここまで書いてみたことに、何か意味はあったのだろうか。

自分の頭の中だけに留めて終わりにしても良かったのではなかろうか。

指を動かすのも疲れるし、文字を多少なり読めるかたちに整えようとしてしまう自分にも疲れる。

けれど、書いたことで小さな幸せの瞬間がそこにあることを思い出せたのは良かった。

それに、いつもだったら頭の中に滞留してしまう思考を文字にして吐き出せたのも良かった。

その機会を作ってくれたことに感謝。

以上、PERFECT DAYSをみて考えたこと。

後記:なぜ、誰かからの共感を求めるのか。

このことについて引き続き考えていたけど、
自分が考えていること、感じていることが、いけないこと、悪いことだと自分が思っている内容ほど、他者に対しての共感性を求めている気がする。

「こんなこと考えちゃう自分よくないかもしれないけど、私だけじゃないよね?」

そうすることで、自分がよくないことだとしていることを正当化しようとしているんじゃないかな。

あと思ったのは、考えることに対して、もはや強迫観念のようなものがある気がするということ。

もっと自分で考えろ。考えてから人にきいて。ちゃんと考えた?
何も考えてなさそう。考えればわかるよね?なんで分からないの?

何か決定的な出来事があったわけじゃないと思うけど、これまで言われてきた言葉によって、「考えないといけないもの」だと、案外縛られているのかもしれない。

なんてね。






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