マス層無双

今更の感じがあるが、マーケティングはあくまでも「売るための技術と思考」であって倫理的正当性をまでを表さない。

「お客様が満足する商品を」とよくいうが、その商品によって「お客様」が満足をすることが価値なのか。もちろんその商品に限ってはそうかもしれない。

とは言っても、金銭と商品の交換が成立している時点のみで判断をして、必ずしも「その商品に価値がある」と言えるのだろうか。

今の多くの清涼飲料水には多量の糖分が入っている。健康に気をつけている人間から見れば飲むことを敬遠する飲み物だ。しかし、「美味しい」という理由だけで、かつ商品によっては健康的なもののように表示するのはある種の「サムネ詐欺」とも言えるだろう。

・危険ドラッグとも揶揄されるストロング系アルコール9%飲料

・ハムやベーコンに入る発がん物質(綺麗なピンク色なら入っている)

・化粧品の植物由来、本来の肌バリア機能を損なう過剰な保湿機能

・タバコはあからさまに不快で、あからさまに危険性があると表示されている意味ではむしろやさしく、正直でもある。

・そして環境問題は最たる典型的な例だ。

かと言って私はすべてのものにリスクの表示をするべきだとも思わない。これは資本主義社会の構造上の問題だ。発展のもう片側。

マーケティングは経済的合理性に従いどこまでも民主主義的で、そして民主主義がマス層無双する以上は、ある種の「俗さ」から離れることはできない(とは言っても抑圧的な社会よりいいことは確実だ)。そしてマス層はその反射に結局のところ不満も覚える。

ここまで科学が発展して物理主義的になっている中でも、SNSを含めた各メディアの広告的な誇張は言論の対立を複雑にさせ、政治は唯一強制的なコントロール権をもつが、主権は実質的に資本主義的総体であって、「調整」の域は出ない。

結局のところ、今現在も「本当はどこにあるか」というようなありふれた古代の問いかけを現在も拭い去ることはできていない。むしろあらゆる言論が魑魅魍魎の体をなし複雑性をより強める。

自分の行く末をどこかの他者の作り上げたシステムと言葉に完全に依存して生きるのはあまりにもリスクが高い。とは言っても消費や情報の取捨選択のリテラシー、欲求のコントロールに関する責任はあくまでこちら側にある。これは資本主義社会で生きていく上での共通マナーとも言えるかもしれない。

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