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キリシタンの島のお城と磁器 富岡城・高浜焼:上田家庄屋屋敷 熊本県苓北町・天草市

バスや鉄道の路線廃止や減便がニュースとなってきているここ数年。理由は人口減少や利用頻度の減少等、そうだよねーとごもっともなハナシ。
一方、交通の便があまりよろしくないトコロにもノコノコ出かけていく自分(スケジュールの自由度優先からほぼ自走)。好んでそういう場所を選んでいる訳ではありませんが、見たいモノやコトがあればスルー出来ません。
そして「こんなトコロもう来ないだろうな」と思った場所に限って、意外と再び訪れるという妙な法則があるような、ないような。
今回は九州の大きな島にあるお城と窯元を。


九州の西端にある肥後の国天草。多くの島々から構成されるこの地域は、今では主要部分が橋で繋がっています。さらにフェリーを駆使すれば長崎から鹿児島まで縦断できます。
ちなみに天草と長崎間のフェリー航路は2つ。天草・鬼池と島原・口之津(30分)と天草・富岡と長崎・茂木(45分)。長崎側は両半島へ移動可能。
10年ほど前の富岡-茂木航路は車両も積載可能でしたが現在は人のみ。当時は車が数台しか載せられない小さな船でした。
また客席に座ると目線が低かったので海面が近く、ぼーっと見ていると水面スレスレを何か飛んでいるのに気が付きました。よーく見ているとそれはトビウオ(あの地域ではアゴ)。初めて見ましたが、結構な距離を飛びます。フェリーを行程に組み込んだ偶然の産物。
今回は島原ー口之津航路(フツーのフェリー)の一択。

左は島原半島、右は?
平らな島は談合島(たぶん) 天草島原の乱前には一揆方の談合現場に


富岡城跡

富岡城南側には袋池 そして鴨

苓北れいほく町は天草郡唯一の町で人口は6,300人。なぜ市町村合併しなかったのかと調べてみると、九州電力の火力発電所の存在が理由のようです。

富岡城跡は下島(天草最大の島)の北西端にあります。砂州さすで繋がった小山の上に石垣を構えた防御の固そうなお城で、原型は寺沢広高てらさわ ひろたか(1563-1633)による築城。(実際に天草島原の乱時には、籠城して唐津からの援軍を待つことになります)。

三宅藤兵衛みやけ とうべえ重利しげとし:1581-1637)は、細川家から寺沢広高の家臣となった元キリシタンの富岡城代。父は明智左馬助さまのすけ光春みつはる秀満ひでみつとも:1536-1582)、母は明智光秀みつひでの娘とされています。幼少期は叔母ガラシャ(1563-1600)の世話になっています(藤兵衛を気遣う書状が残る)。
藤兵衛は天草島原の乱では一揆勢と本渡ほんどで戦いますが、敗れて自刃。勢いづいた一揆勢は富岡城を攻撃しますが、固い守りの前に撤退。その結果一揆勢は、島原へ渡海して原城に籠城します。

そして乱後の天草領主は山崎家治やまざき いえはる(1594-1648)を経て、江戸幕府領となります。天草は42,000石とされていましたが実高は半分だったそうで、乱はその重税にあえいだ農民が蜂起した面もあります。

三宅藤兵衛 図録
発行:2020年 53ページ
天草市立天草キリシタン館

藤兵衛についての素晴らしい図録。天草でしか成立しないような展示です。大河ドラマに合わせての企画だったと思われますが、あの年は全国のミュージアムには苦難の年でした。展示に行けなくても手に入れられるのが、とてもありがたい。ちなみに藤兵衛の子は後に肥後細川家に仕官しています。
彼が城代を務めた富岡城へ。

東側には砂嘴さし 地形の勉強になる
二の丸にある苓北町歴史資料館内
建物は復元されたもの
本丸にあるビジターセンター
センター内
本丸から二の丸方向
南側 砂州には町並みと富岡港
二の丸には銅像が4体

重厚な石垣は山崎家治の手によるモノ、家治は大坂城(徳川時代)の石垣普請でも活躍し、前任地の備中成羽なりわや後任地の讃岐丸亀城にも立派な石垣を残している人。天草領主時代には荒廃復興に力を尽くしています。


幕府領代官 鈴木重成

重成(左)と正三(右)の鈴木ブラザーズ @富岡城

山崎家転封後に幕府領となった天草に代官として赴任したのが鈴木重成しげなり(1588-1653)です。兄の正三しょうさん(仏門に帰依)と共に天草復興に尽力したバリバリの三河武士と元武士。ちなみに残りの銅像2体は勝海舟と頼山陽。

こちらは天草市本渡町の鈴木ブラザーズの足跡

曹洞宗 明徳寺(天草市本渡町) なかなかの山門です
明徳寺は重成の建立

重成後任の代官には、養子の重辰しげとき(正三の子:1607-1670)。重成が幕府に訴えていた石高の半減(領民の負担低減)を実現しています。
また彼らはキリスト教徒たちを再び仏教へと導く役割も帯びていました。
重成、正三、重辰の3人は天草の鈴木神社に祀られています。領民に慕われていた統治者だったのでしょう。


富岡から国道389号線を南下します。右手の東シナ海を横目に気持ちよく走れる道です。

東シナ海を望む西の果ての地

道中に田んぼはありません。


上田家庄屋屋敷・資料館

上田家庄屋屋敷があるのは、東シナ海を望む天草・下島の西海岸中部。陸続きで行けるとはいえ、天草の中でも交通の便が良い所とはいえません。そんな所に何でまたそんな一族がという情報を得て興味を引かれました。

上田家は高浜地域の庄屋さんの家系、そして窯元です。窯を始めた当時は珍しかった磁器を製作し、集落を盛り上げようと代々奮闘された家。
江戸時代の庄屋住宅と庭園に現在も家業の陶石販売と陶磁器のお店、そして意外といっては失礼ですが、濃い内容の資料館があります。

上田資料館 入場チケット2021年版
上田家庄屋物語 図録
発行:2012年 22ページ
上田陶石合資会社


イラストに独特の味がある図録によると天草島原の乱では、下島の西海岸側(つまり高浜)から一揆方に加担した人はいなかったそうです。最もキリシタンが多かったのは大矢野島(熊本からは入り口側の島)で、下島では本渡(東側)や志岐(富岡城の付け根)。

上田家の初代は助右衛門正信という信濃の人。信州の名族・滋野氏の血筋とされ、豊臣秀頼(1593-1615)に仕えています。大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しますが、上田家は大坂城から九州へとはるばる落ち延びてきます。大坂では同族で豊臣方の有力武将だった真田信繁のぶしげ(幸村:1567-1615)に属していたのでしょうか。

父に従い高浜に移った2代目勘右衛門定正は、代官鈴木重辰に庄屋になるよう命じられます。あの富岡城に立っていた人の後継者です。上田さんは血筋や履歴からすると相応の教育を受け、優れた人物だったのでしょう。そして以降代々の当主は庄屋を務め、田畑の少ない土地の痩せた高浜村で殖産興業のため陶磁器製作にたどり着きます。
1762年に肥前の陶工を雇って窯を造ります(高浜焼のスタート)。収支は安定しなかったそうですが、村民の雇用創出のため赤字覚悟で取り組んだと。
ここでキーパーソンとなったのが平賀源内ひらが げんない(1728-1780)、エレキテルもしくは土用丑の日の人。

平賀源内とエレキテル像 @平賀源内旧邸(香川県さぬき市)

源内さんは天草の陶石のクオリティの高さに気付きます。
幕府(日田の代官)にも陶器工場設立の建白書を提出したそうですが(実現には至らず)、この事によって日本各地に天草の陶石が知られるように。
そして長崎奉行からは、オランダ人向けの磁器製造を命じられ出島で販売しています(資料館チケットの写真参照)。

図録によると上田家のイチオシは7代上田宜珍よしうず(1755-1829)。
本居大平もとおり おおひら宣長のりながの養子)や伊能忠敬いのう ただたかに学び、キレキレの才能は隣村の庄屋も命じられるほど。海運や漁業そして隠れキリシタン問題の処理にも活躍し、天草の歴史書をまとめたり伊能図の天草版作成にも携わります(測量の素養もすでに持っていた)。
資料館で最も興味深かったのは、「田舎での陶磁器作りは市場のニーズ(デザインや流行)から取り残されがちになるので、よくよく精進するように」という教え(たしか宜珍さんだったと)。
当時の天草でそういうセンス・視点をお持ちとは驚きです。

上田家庄屋屋敷
案内板は焼物?
足元注意も焼物?
老朽化が激しく邸宅見学は外観のみ
窓の木枠が凝っています
昔の船着きでしょうか
上田資料館

上田家の陶磁器製造部門は商売的には成功とは言えなかったようです。ただし村人たちの生計のための事業と位置付けて明治まで継続。

現在販売されている高浜焼は、真っ白な器にシンプルな絵付けがされたもの。天草の陶石の中でも最上級クラスが使われ、その白さが際立ちます。
また絵付け教室もあります。


実は天草島原の乱や上田家については、司馬遼太郎さんが街道をゆくで触れています。けっこう昔に読んでいましたが記憶に残っていません。改めて読んでみると興味深い点が2つ。
司馬さんは当然のように上田家を網羅していました。出版された1980年代は当たり前ですが書籍しかない時代、恐るべき好奇心と探求心です。自分は何を読んでいたのでしょうか(結果2度足を運ぶことに。悪くはないけど)。
一方、三宅藤兵衛については「よくわからない」人としています。光秀との関係には触れずに、細川家の家老長岡監物けんもつ(たぶん米田是季こめだ あきすえの事)とは親友だったらしいとだけ。長岡監物は主君だった細川忠興の不興を買い、一度細川家を出ています。大坂の陣ではなぜか豊臣方として戦い、その後なぜか細川家に帰参して家老となった人。まさか上田家と大坂城で交錯していたのではとふくらむ妄想。
藤兵衛については、司馬さん執筆時には研究が進んでいなかったのかも。


徳川家康は大坂夏の陣をもって、戦国の世の終焉元和偃武げんな えんぶとしています。
一方、豊臣秀吉の時代に敗者となった天草五人衆と呼ばれた国人や、大坂の陣で敗者となった浪人衆が九州の地で一揆軍を扇動し、天草島原の乱によって一発逆転を狙ったという見方もあります。
また天草を見て回って知ったのは、元キリシタンや敗者たちの再起。
天草島原の乱こそが、キリシタンを触媒として各地に燻っていた戦国時代の残り火を昇華させ、パックス・トクガワーナ(元和偃武のキリシタン風)へと導いたのでは。


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