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『毒龍邸の殺人』



あらすじ

毒龍伝説の残る村の山奥に佇む「毒龍邸」で、大地主の娘が殺された。彼女の誕生日パーティの参加者たちは、雷雨の影響で邸内に閉じ込められてしまう。「龍の唸り声」と呼ばれる怪奇現象も起こり、考古学教授である虎井戸とらいど零十れいとは、一般OLの日比谷美琴ひびやみこととともに死体消失トリックの謎に臨むが……。


主な登場人物

大槻耕三郎おおつきこうざぶろう…………資産家。「毒龍邸」の主人。
  早苗さなえ……………その妻。故人。
  玲華れいか……………その娘。
高柳絹代たかやなぎきぬよ ……………以前「毒龍邸」に勤めていた使用人。故人。
垣根芳子かきねよしこ……………「毒龍邸」の現在の使用人。
園部辰巳そのべたつみ ……………建築会社幹部役員。
森光竜介もりみつりゅうすけ……………ベンチャー企業代表取締役。
横須賀琉聖よこすかりゅうせい…………医師。大学病院に勤務。
 
          *
 
香坂奈穂こうさかなほ ……………帝都大学三年生。玲華の友人。
虎井戸零十とらいどれいと…………帝都大学教授。考古学の権威。
日比谷美琴ひびやみこと…………会社員。 


[図1]毒龍邸平面図


【問題編】

 群馬県N郡の山間部に位置する慶棈けいせん村は、かつて紡績業の興隆によって栄えた地域であった。一代で財を成してその地位を築いた名士、蔦藪冨久雄つたやぶふくお氏の邸宅(現在の旧蔦藪冨久雄邸)があった。蔦藪氏が度々、政財界の大物たちを屋敷へ招き、秘密裏に会合を開いていたとする黒い噂もまことしやかに囁かれていたが、真偽のほどは定かではない。産業の衰退とともに、人知れず時代の端に追いやられた本邸は、山林の内にひっそりと佇み、当時の華やかさは見る影もない。
 本邸は蔦藪氏の没後、しばらくは所有者不在であったが、十年ほど前に資産家の大槻耕三郎おおつきこうざぶろう氏が周辺の土地一帯を手中に収めた。しかし、邸宅が大槻氏の手に渡ってからというもの、屋敷に関わる人間に様々な不幸事が起こった。村の人間たちは口々に、「毒龍の祟りだ」と言って恐れたのだった。
 この村には、古くから語り継がれている毒龍の伝承がある。
 村の西側の湖に、極めて邪悪な性格の毒龍が棲んでいた。機嫌を損ねると火炎を吐きながら村中を暴れ回り、天災や水害、飢饉を起こして人々を恐怖に陥れていた。困った村人たちは、毒龍の怒りを鎮めようと、毎年一人ずつ年頃の若い娘を生贄に捧げたが、毒龍の災いは鎮まるどころか、一向に収まる気配を見せなかった。ある時、地方行脚をしていた高僧が村を訪れ、毒龍と対峙した。僧侶の並外れた法力を前に、毒龍もついには降伏したとされている。
 現在では土地の守り神として祀られているが、大昔から慶棈村周辺は「忌み地」として避けられてきた。長年、旧蔦藪邸に買い手がつかなかったのも、このためである。生贄の風習が、ほんの数十年前まで続いていたとする研究者もいるが、いまとなっては毒龍のみぞ知るところである。
 その曰く付きの屋敷は、忌まわしき伝承を揶揄して――「毒龍邸」と呼ばれるようになった。

          *

「お腹の子の父親を、探して欲しいんです」
 虎井戸零十とらいどれいとは、思わずコーヒーを吹き出していた。
「なんだって?」
 帝都大学文学部史学科考古学研究室を訪ねてきたのは、ゼミの三年生、香坂奈穂こうさかなほだった。どこか日本人離れした顔立ちの彼女は、ゼミの学生の中でも成績は優秀だった。
 この部屋の番人である虎井戸零十は、つい先日、教授に就任したばかりであった。痩身の体躯で、ボサボサの髪をセンターで分け、堀が深く、目は落ち窪んでいる。鼻の下と鋭い顎の先に蓄えられた口髭は、わずかに整えられていた。「折り入って相談がある」と学生から言われ、何事かと色めき立っていたわけである。
 入室してからしばらく、何やら言い出しづらそうに、香坂奈穂はもじもじしていた。まあ、まずは一服しないかと、零十はインスタントコーヒーを勧めたのだが、丁重に断られたところだった。
 すると彼女は、開口一番、とんでもない爆弾をこの狭い部屋に放り込んできたのである。
「あ、ごめんなさい。説明が下手で。私の親友の話なんです」
「おいおい、おどかさないでくれよ。それを先に言ってくれ」
 研究室は、うずたかく積み上げられた研究書や書類の山で溢れ返り、壁の棚には化石や標本の類がずらりと並んでいる。二人は小さなテーブルを挟んで、両側のソファに座って向かい合っていた。
「私の地元、群馬の田舎の方なんですけど、親友がいるんです。お父さんが資産家で、おっきいお屋敷があって、今度そこで、その子の誕生日パーティがあるんです。私も招待されたんですけど、久々に連絡を取ったら、彼女、妙な事を言い出して……」
「妙な事?」
「妊娠したかもしれないって……でも、相手の男性は誰なのか、絶対教えてくれないんです。しかも……」
「しかも?」
「……毒龍の呪いの仕業だ、って言うんです。ずっとその一点張りで」
「毒龍……? なんだいそれは」
「村に昔から残っている伝承です。毒龍っていう悪い怪物が、女の子を連れ去って悪さをするんです」
「民間伝承だったら、知り合いに詳しい教授がいるから、ぜひ紹介……」
「実はそのお屋敷で、以前に女性が二人も亡くなっていて……彼女は、次は自分なんじゃないかって言ってて、私心配で……」
 零十は面倒な相談を受けてしまったと、内心思いながらコーヒーを啜った。
「教授は、これまでにもいろんな怪事件に遭遇されて、その度に解決なされてますよね」
「うん、まあ……えっと、そんなもんだな」
「お願いです、先生しか相談できる人がいなくて」
 香坂奈穂は、上目遣いで零十を見つめてくる。
飲み会の席に遅れてやって来て、後から場をかき乱すタイプだな、と全く関係のないことを、虎井戸零十は考えていた。
「群馬か」零十はマグカップをテーブルに置く。「浪漫があっていいじゃないか」
 
 
 切り立った山脈の先から、積乱雲が迫っている。あれが大質量の水蒸気だとは、到底信じがたいほどに、巨大な白の塊が空に浮かんでいる。
 虎井戸零十の運転する愛車は、長いトンネルを抜けた。冷房の効きが悪く、うだるような熱気に、零十はワイシャツの襟元を仰いでいる。
 助手席では、日比谷美琴ひびやみことがしきりに枝毛を気にしていた。
「それで、引き受けちゃったんですか」
「ああ、もちろんだ。僕は女性に対しては、常に紳士でありたいからね」
「民俗学は専門じゃないんでしょ」
「所詮は男女の色恋沙汰だ。その点では僕の専門分野といえる。地道に証拠をかき集めて、推論を立て、鮮やかに謎を解き明かす。考古学の調査と探偵業は実によく似ているんだよ、日比谷ひびや君」
「何が、浪漫、ですか。ただ若い子にいい顔したいだけでしょ」
 日比谷美琴みことは呆れたように窓の外を見る。丸顔に銀縁の丸眼鏡、重たい前髪に鎖骨まであるウェーブがかった黒髪。肌は、そのまま透き通ってしまうほど、病的なまでに白い。都内で会社員として働く彼女は、普段はフォーマルスーツだが、今日ばかりは、ノースリーブに薄手のロングスカートといった、夏使用の出で立ちだった。
 零十が、たまった有休を温泉で消化しないか、と電話で呼んだら、すぐに食い付いてきた。これまで解決に導いてきた怪事件の数々は、ほとんどが日比谷美琴の聡明な洞察力によるものであった。
 舗装されていない道に差し掛かった。「落石注意」の標識を過ぎると、左手に大きな湖が現れた。
「ちょっと顔を出すだけさ。今回は、あくまでフィールドワークのついでだ。この辺りを掘れば、土器やら出土品やらがごろごろ見つかるはずだよ」
「急に群馬の山奥なんて、死体でも埋めに行くのかと思いましたよ」
「偏見が過ぎるな。馬に乗った部族に追いかけられて、弓矢で射抜かれるぞ」
 小型のクラシックカーは、蛇行した山道を進む。
 遠くで、かすかに雷鳴が聞こえた。


 豪勢な門をくぐると、足元に飛び石が続いており、よく手入れの行き届いた庭の先に、屋敷の玄関があった。「毒龍邸」とは名ばかりの、案外、質素な外観の、ごくありふれた平屋の日本家屋である。屋敷の敷地面積はかなり広いようだ。
 使用人らしき女性が、二人を出迎えた。
「虎井戸零十様ですね。香坂様から伺っております。そちらの方は……?」
「彼女は、まあ……助手です」
「温泉は、どこに行けば入れますか?」
「おい」
 玄関の正面には、額縁に入れられた大判の絵画が飾られていた。雄大な山々の自然と、それに囲まれた湖を俯瞰して描かれたものだった。
「こちらは、どなたが描かれたんでしょうか」
「主人である耕三郎様のお嬢様、玲華れいか様です」
「龍神湖ですよね。ここへ来る道中で見えました。素晴らしい絵だ」
「あのー、これって、どこの場所から見た絵なんですか」
 美琴は絵画に鼻先を近づけて首をかしげる。
「鳥瞰図の技法を知らないのか、日比谷君。馬鹿にされるぞ」
 こちらです、と使用人の垣根芳子かきねよしこは、圧倒的スルースキルとともに、二人を奥へ案内する。彼女はつい最近、この屋敷に仕えるようになったらしい。
「あ、零十教授! いらしてくださったんですね」
 パーティの準備を手伝っていたであろう、香坂奈穂がひょこっと姿を見せた。その背後から、杖を突いた初老の男性が現れた。
「あなたが虎井戸さんですか、いやあ、お噂はかねがね。ええと、お隣は……?」
「虎井戸の助手です。日比谷と申します。お見知り置きを」
 美琴も助手で押し通すことに決めたようだ。
「足が悪くてね、こんなのだから何もお構いできませんで」
「いえいえ、とんでもない。お会いできて光栄です、大槻先生」
 柔和な笑みを浮かべる大槻耕三郎は、どこか落ち着いた雰囲気を持っている。
「娘が先生の大ファンでしてね、離れにいると思いますよ」
 私が案内します、と香坂奈穂が名乗り出た。
 毒龍邸の構造は、真上から見ると、龍がとぐろを巻いている姿に見えるよう設計されており、螺旋状のいびつな廊下を、ぐるりと取り囲むように部屋が並んでいる。そのため、零十と美琴は、邸内の複雑な動線に慣れるまで、少しばかり時間を要した。途中、廊下が十字に重なっている箇所を除けば、玄関から、玲華嬢の離れの自室まで、曲がった長い一本の廊下で繋がっていることになる。
 屋敷の北側、奥まった場所に大広間がある。その外周の縁側の通路を進み、二人は香坂奈穂とともに、離れへ向かった。
「玲華、教授を連れてきたよー」
「お待ちしておりました。虎井戸先生」
 窓際に立っていた大槻玲華は、こちらに振り返った。細身な体型の彼女は、艶のある長い黒髪を、胸の高さまで垂らしている。絵に描いたような見返り美人である。
「先生の本、すべて拝読させていただいております。『Don't worry怪奇現象』『虎井戸落とし』、そして最新作の『君たちはどうベストを尽くすのか』。非常に興味深い内容でした」
「どれも僕の力作です。さぞかし、親御さんの教育が、行き届いているんでしょうね」
「とっても読みやすかったです。文字が大きくて」
「……それは、どうも」
 広々とした室内の床には、一面に赤い絨毯が敷かれ、中央には西向きにセミダブルベッドが置かれている。東側、入り口の扉から見て正面の壁、ベッドの向こう側に、大きな姿見が設置されていた。南側には両開きのガラス窓、重厚な木製の机、そして、隅に観葉植物があった。北側には、たくさんの洋服が掛けられたオープンクローゼットと、様々な種類の書籍が並ぶ本棚があり、中でも零十の目を引いたのは、本棚に置かれた土器であった。
「これは、弥生土器ですね。深い地層まで掘らないと見つからないはずです。外の廊下の突き当りにも置いてありましたよね」
「あまり詳しくないのですが、形が綺麗なので、置いてるんです。くれぐれも触らないでくださいね。貴重なものらしいので」
 これまで、興味なさそうに押し黙っていた日比谷美琴が、突然口を開いた。
「あのー、玲華さんが、毒龍に呪われているというのは、本当なんでしょうか」
「いきなり失礼じゃないか。何を言い出すかと思えば……すみませんね、彼女は学術的なことは点で駄目で」
 大槻玲華は、美琴に鋭い視線を投げ、不敵に微笑む。
「ええ、本当ですよ」
「具体的には、どのような」
「毒龍の言い伝えについては、奈穂から聞いていると思いますが、この屋敷では、過去に二人の人間が不審な死を遂げています……次は、この私かも」
「ちょっと玲華、何言ってんの、冗談はやめてよ」
「ごめんなさい、体調が優れないので、パーティが始まるまで少し休みます」


 空には鼠色の分厚い雲がかかり、いまにも雨が降り出しそうだった。
 半ば強制的に、離れの部屋から追い出された三人は、屋敷を出て、西側にある滝壺まで歩いてきた。勾配のきつい坂を下のほうまで下りていくと、水が落ちる音が聞こえてきた。
 美琴がどうしても、過去の不審死の現場を見たい、と言って聞かなかったのだ。
 一人目の犠牲者は、大槻耕三郎の妻、大槻早苗さなえ。屋敷近くの川の上流から足を滑らせて転落し、川を下って滝から落ち、そのまま溺死したとされる。当時は、冬の時期でその日は雪が降っていた。周囲に目立った痕跡や足跡などがなかったことから、事故死と判断された。
「ここが現場か。この滝壺の淵から身を乗り出すように倒れていたと」
「昔は、毒龍に生贄を捧げるための祭壇を、滝の裏の洞窟に作ったらしいです。ほらちょうどあの辺りに」
 香坂奈穂が指差した先で、美琴が岩肌を伝って進みながら、何か叫んでいる。
 ――あのおー、こっち側になんか空間がありますよー。
「今回の生贄は彼女らしいな。行こうか香坂君」
「はい、先生」
 ――あれえ、行き止まりだ。ねえっ、置いてかないでくださいよおー。
 二人目の犠牲者は、前の使用人、高柳絹代たかやなぎきぬよ。垣根芳子より以前に、屋敷に勤めていた女性だ。正面玄関の東側、玲華嬢の自室から見て真南に位置する場所に池がある。この傍で、頭から血を流して倒れていたところを発見された。すぐ近くにあった大きな岩に血痕が付着しており、誤って転倒し、頭を打ち付けたとみられている。
「鯉に餌をあげようとしていたのか」
「その時は、なにも持っていなかったみたいですよ」
 優雅に池を泳いでいる斑模様の鯉たちは、こちらが近づくと、口をパクパクさせながらひしめき合っている。
「それにしては、倒れ方が不自然ですよね」
 美琴は、空の色とほぼ同化した屋根瓦を見上げている。まだ昼過ぎにも関わらず、辺りは暗くなってきていた。
 突如、閃光が走った。
 数秒後に雷の轟音が鳴り響く。間髪入れず、槍のような激しい雨が降り注いだ。
 待ちかねていたように、蛙たちは大合唱を始めた。
「あ、降ってきましたね」
「おい、そんなこと言ってる場合か!」
 香坂奈穂は真っ先に屋内に退避していた。二人も慌てて後に続く。邸内にはパーティの出席者が続々と集まっていた。といっても、誕生日会は小規模なもので、新たに来ていたのは男性三名だけだった。香坂奈穂によると、皆、大槻耕三郎の知り合いらしい。
「急に降られちゃってねえ、参りましたよ」
 玄関で、グレースーツの浅黒い男が革靴を脱ぎ、垣根芳子に荷物を預けていた。
 園部辰巳そのべたつみ。巨大建設会社の幹部役員である。主にビルや商業施設のエレベーターや立体駐車場など、建設事業から電気設備まで幅広く携わっている会社だ。メディアに疎い零十でも、名前を聞いたことのある大企業だった。
 廊下の端で、大声で電話をしている茶髪の若い男がいた。
「え? だからさあ、こっち泊りだから、明日の午前中は間に合わ……もしもし? 電波悪いなあ」
 森光竜介もりみつりゅうすけ。最近勢いのある若手起業家で、若くしてベンチャー企業の代表取締役になっている。美琴は雑誌で顔を見たことがあるという。短パンにアロハシャツといった服装だが、ブランド物の鞄や装飾品の類などを見るに、かなり羽振りは良さそうだ。
 大広間で、大槻耕三郎と話していたのは、背の高い青年だった。
「今の自分があるのは、大槻さんのおかげです。本当に感謝してもしきれません」
 横須賀琉聖よこすかりゅうせい。県内の大学病院で医師として勤めている。玲華との婚約の話が密かに上がっているようだが、実際のところ、どこまで話が進んでいるかは、不明である。端正な顔立ちで、鼻筋も通っているので、モデルや俳優と言っても通用するほどのルックスである。
 雨は次第に強さを増している。垣根芳子が、零十と美琴に声をかけてきた。
「今夜は一晩中、雷雨だそうです。本日は、こちらにお泊りになられてはどうかと、旦那様が」
「本当ですか、嬉しいなあ。ぜひ、ご厚意に甘えさせてください」
「温泉……」
 満面の笑みを浮かべる虎井戸零十の傍らで、美琴は名残惜しそうに呟いている。
「部屋数の関係で、一部屋しかご用意できないのですが……」
「ええ、我々は一向に構いませんよ。全くお気になさらず」
「温泉……」


 大広間でパーティが始まったのは、夕方五時頃からだった。本日の主役である大槻玲華はというと、簡単に挨拶をして、客人にお酌をした後、早々に自室へ引き上げてしまった。
 下腹部をさすりながら立ち上がった玲華を、香坂奈穂が介抱しながら離れの部屋まで連れていった。
 ほどなくして、香坂が帰ってきた。美琴の横に座ると、香坂は麦茶の入ったグラスを傾ける。美琴はジンジャーエールを浴びるように飲みながら、参加者たちの様子を観察していた。
「玲華さんのご様子は?」
「だいぶ落ち着いたみたいで、いま横になって休んでます」
「ふうん。そうですか」
 美琴はお構いなく、これ幸いとばかりに卓上の料理を頬張っている。
「虎井戸先生がこれまで遭遇されて事件について、ご高話賜りたいですなあ」
「そうですねえ、何から話しましょうか」
 籐の椅子に腰かけた大槻耕三郎の横で、虎井戸零十が熱弁を振るっていた。他の男性陣も酒が入り、すっかり上機嫌で、話が盛り上がっている。これでは誰のための集まりなのかわからない。
 パーティがお開きとなり、各々が解散したのは八時を回った頃だった。
 異変が起こったのは、その約三十分後、八時三十七分のことである。
 虎井戸零十は食堂にて、大槻耕三郎に与太話の続きを語っていた。
 ――すると、突然。
 どこからか地響きとともに、とてつもない轟音が鳴り始めた。その音は地を這うように低く、邸内の調度品や、ガラス戸は激しく振動している。
「地震です! 大槻先生、机の下へ!」
 大槻耕三郎は小さく、またか、と呟く。
「いいえ、大丈夫ですよ。すぐに収まります。地震ではありません、あれは龍の唸り声です」
「龍の、唸り声……?」
「毒龍が鳴くとき、屋敷に災いが訪れる……。古くからの言い伝えですが、まったくのデタラメですよ。このところ久しくなかったんですが……」
 零十には、屋敷の主人があまりに落ち着き過ぎているように見えた。
 体感だと「唸り声」は長く感じられたが、実際は約二〇秒間であった。
 台所から、垣根芳子と、口をもぐもぐさせている日比谷美琴が駆け込んできた。
「旦那様、お嬢様の様子を見て参ります」
「ああ、芳子さん。気にしなくていいよ」
「いえ……ですが、念のため」
 使用人は一歩も引かない。主人も無理には止めようとしなかった。
 垣根芳子はすぐに帰ってきた。
「あの、お嬢様がお部屋におられないんですが……」
「玲華がいない? どこに行ったんだ」
 廊下が十字に重なっている地点まで一同が来ると、他の客人たちもわらわらと集まってきた。
「なんだねさっきのは。すごい揺れだったぞ」
「すげえ音してましたけど、大丈夫すか?」
 園部辰巳と森光竜介は、宿泊する部屋の入り口から、それぞれ顔を出した。
 北側の縁側は雨戸で塞がれ、激しい雨が打ち付けている。この状況下で、玲華が屋敷の外へ出たと思うものは、誰一人としていなかった。
 時計の針が、八時五十二分を指した時だった。
 再び、あの地響きのような轟音が邸内を襲った。
 柱だけでなく、梁までもが共鳴するように振動している。
 美琴は腕時計を凝視している。
「玲華さん、あの、龍神様だっけ? さらわれちゃったんじゃないの」
 森光の茶化すようなセリフも、あながち冗談とは受け取れないものだった。
「唸り声」が収まった。
 中庭が、一瞬光った。
 直後、凄まじい雷鳴。
 銅鑼を叩き落したような爆音に、皆が身体を震わせる。
 同時に、邸内は暗闇に包まれた。
「停電だ!」
「ブレーカーはどちらに?」
「台所のほうです」
「懐中電灯は」
「ケータイで照らせば良いのでは?」
「君は、ずいぶん呑気だな」
「痛ってえっ」
「懐中電灯ありました!」
 結局、電力が復旧したのは、九時十四分のことだった。
 横須賀琉聖の長身の図体が、ぬっと現れる。園部がオーバーにのけ反る。
「おわっ、驚かせるなよー」
「ずっとここにいましたよ。停電して、騒がしいから、部屋から出てきたんですよ。外はうるさいし、とても休めたもんじゃない」
 鼓膜をつんざくような悲鳴。
 玲華の自室からだった。
 大広間に集結していた一同は、離れまでの長い通路を急ぐ。
 部屋の扉の前では、垣根芳子が腰を抜かしてわなわなと震えている。
 悲鳴の主は室内の中央を指差す。
 室内の光景を目撃した全員に、雷が落ちる以上の衝撃が走った。
 中央にあるベッドの上で、玲華が足をこちらに投げ出すようにして、仰向けに倒れていた。
 胸にはナイフが突き立てられており、傷口から大きな赤い染みを作っている。
 他にも数か所に傷があり、服やシーツは鮮血に染まっていた。
 横須賀琉聖が真っ先に飛び出した。零十は止めようとする。
「あまり触らないほうが」
「僕は、医者です!」
 皆の見守る前で、瞳孔や脈拍を確認した横須賀は、静かに首を横に振った。
「嘘だ……」
「玲華……」
「玲華さん……」
 後ろのほうから香坂奈穂の声がした。濡れた髪の毛をバスタオルで抑えている。
「あの、皆さんどうしたんですか」
「奈穂ちゃん、玲華さんが死んでる」
 香坂奈穂は玲華の変わり果てた姿を認めると、ヒッと短い悲鳴を漏らし、目を見開いた。口元を抑えると、その場にへたり込んだ。
 いつの間にか、南側の窓際で日比谷美琴が外を眺めている。
「おい、日比谷君、勝手に入るなよ」
「大丈夫です。触ってないんで」
「そういう問題じゃない」
 警察に連絡しようとした園部が、肩を落とした。
「駄目だ。通じない」
「こっちも圏外ですよ」
 携帯電話を確認した森光を始め、その場にいた全員が落胆する。
「すみません、お屋敷の電話も繋がらなくて……」
 垣根芳子がどこかから小型ラジオを持ってきた。ノイズ混じりにかすかに音声が聞こえる。
「屋敷まで来る途中の道で、土砂崩れがあったみたいです」
 虎井戸零十は、湖の近くの道にあった標識を思い出していた。湖は屋敷から見て西側に位置する場所にあった。
「連絡が通じても、警察はここまで来れないってことですか」
「この辺り一帯が、地滑り地帯なんです」
「さすがにこの天気じゃ、ヘリを飛ばすのも難しいだろ。朝までこの嵐が収まるまで待つしかないな」
「明日、午後には東京に着いてなきゃいけないんだよ。何とか徒歩で降りる道は」
「崖の多い切り立った山道です。この天候ですし、素人が、しかも夜中に村の方まで下りるのはあまりに危険です」
 大槻耕三郎は、このような非常時にも冷静だった。
「……仮に、その人が犯人だったら、そのまま逃げちゃうかも」
 日比谷美琴に全員の視線が集まる。
「我々はこの屋敷に閉じ込められたんです。玲華さんの死の真相を、ここで明らかにするべきです。警察が到着する前に」
「それは、毒龍の呪いとか祟りとかなんとかで……」
「いいえ。そんな都合の良いおとぎ話は存在しません。玲華さんは確かに、何者かによって殺されたんです。そして、その犯人は……この中にいる誰かです」
 強烈な雷が、また一つ落ちた。


 一同は、大広間に戻ってきた。先程のパーティとは打って変わって、場の雰囲気は沈み切っている。虎井戸零十が口火を切った。
「とりあえず、状況を整理しましょう。まずは、ご遺体の状態から……」
 零十は横須賀琉聖に目配せした。
 医者曰く、死因はナイフで刺されたことによる失血死。左鼠径部、右脇腹、右鎖骨の下、左乳房の下、計四か所の刺し傷があり、いずれも正面から刺されている。致命傷となったのは、おそらく左鼠径部のものであり、もっとも傷が深く出血も多い。
 凶器は、玲華が自室で保管していたタクティカルナイフであった。遺体が発見された時、ナイフは四か所のうち、右鎖骨の下、肋骨の間に突き刺さっていた。ナイフは一点物であり、柄の装飾も独特な形状で、世に二つとして存在しない代物である。
 衣服の乱れはなく、性的暴行を加えられた形跡もなかった。死後一時間も経過していないとみられる。
 一時期、法医学の道も志していた横須賀医師の見解は、以上であった。
「他に変わった点はありませんでしたか。例えば……」
「妊娠していたとか」
 美琴が口を挟む。横須賀は声を荒げた。
「何を言ってるんですか。玲華が? ありえないですよ」
「わかるものなんですか」
「まあ、医者ですから」
 美琴は片手で肘を抱え、もう片方の手で髪の毛の先をいじっている。彼女が思考モードに入っている際の癖である。
「部屋に唯一ある南側の窓は、内側からフック状の鍵が掛かっていました。まあ、この雨なら当然ですが。第一発見者は垣根さんでしたよね」
「はい……そうです」
「入り口の扉は開いていましたか?」
「扉は閉まっていましたが、鍵は開いていました。外からお声掛けしてもお返事がありませんでしたので……中へ入りましたら、お嬢様が……」
 垣根芳子はすすり泣きながら、口元をハンカチで抑える。
 美琴が黙ってしまったので、零十が後を続けた。
「じゃあ……ここらで、皆さんのアリバイを、整理しましょうかね」
「私から話そう」
 大槻耕三郎の渋い低音が大広間に響き渡る。
 以下、玲華が自室に戻ってから、現在に至るまでの行動についての、全員の証言である。
「解散後は、食堂で虎井戸さんとずっと話をしていたよ。途中、トイレに行くのに中座したが、十五分もかかってない。玲華の部屋まで往復するだけで精一杯で、ナイフで刺し殺すなんて、もってのほかだ」
 名前が出た虎井戸零十も続けて証言する。
「確かに、僕は大槻先生とずっと食堂にいました。昔の事件の話に華が咲きましてね。それに、あれだけナイフで刺せば犯人は返り血を浴びたはずだ。着替えるのも一苦労だ。先生に犯行は不可能ですよ」
 その間に零十が食堂から動いていないことも、垣根芳子の証言によって立証された。垣根芳子はだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「パーティの後、わたくしはこの広間の片付けをしておりました。奈穂さんも手伝ってくださって、八時半には終わりました。奈穂さんもお風呂に行かれて、それ以降は、ずっと台所で洗い物を。そこで、日比谷さんがつまみ食いを……」
「つ、つまみ食いとは失敬な。私も片付けを手伝ってたんです。食べ物が残ったらもったいないですから。ちなみに、初対面の私が、玲華さんを正面から刺すなんて、無理があります。そもそも部屋にも入れてもらえないでしょうし」
 そのほかにも、複数人によって、邸内の各所をウロウロしていたとする旨の証言があり、美琴のアリバイも立証されてしまった。
 香坂奈穂は、俯きながら控えめに喋りだした。
「芳子さんの言った通り、ここで片付けを手伝ってました。そのあとは、停電するまでずっとお風呂に入っていて、急に暗くなったから、怖くなって、急いで服を着て出たんです。そしたら玲華が……」
 美琴は眼鏡の位置を直す。
「そういえば、パーティが始まった直後に、玲華さんが戻ったとき、香坂さんも一緒について行ってましたよね。生きている玲華さんを見たのは、それが最後ですか」
「私が玲華の姿を見たのは、それが最後です」
「その後に、玲華さんを見た方はおられますか」
 横須賀琉聖が、すっと手を挙げた。
「それなら、パーティが終わったすぐ後に、自分は玲華さんの様子を見に行きました。顔色も悪かったし、入り口で少しだけ話して、そのまま戻りました。室内にも入ってません」
「その時に殺してたりして」
「しかも、停電の時まで、君はずっといなかっただろ。停電のどさくさに紛れてやったんじゃないのか」
 茶々を入れた森光に、園部が加勢した。
「泊まる部屋にずっといましたから、アリバイはないですが……ただ、誓って、自分は玲華さんを殺してはいない!」
 森光竜介は、畳の上にあぐらをかいている。
「俺も、自分の部屋の中にいたけど、あの『例の音』がしたから外に出た。それからは、そこの教授先生とか眼鏡ちゃんとかと一緒だったよ。停電してから俺は、玲華ちゃんの部屋に行くための、そこの通路にずっといたんだ」彼は大広間の北側の廊下を指差す。「足を柱にぶつけたからよく覚えてるよ。復旧するまで誰も通らなかった。断言する」
「だったら、社長さんにも犯行は可能だな。以前、玲華さんに何度もアプローチして、こっぴどく振られたそうじゃないか」
 園部が翻って、今度は横槍を入れた。
「俺は、過去は振り返らないんだ。そういうおっさんはどうなんだよ」
「私もしばらく客室に籠っていたが、あの地鳴りがして部屋を出たんだ。停電した時には、ブレーカーの場所を探していたがね」
 園部辰巳は、軽く咳払いをする。
「最初の揺れがあった時、玲華さんは部屋にいなかったんだろ。つまり、その時まだ彼女は生きてたってことじゃないか?」
「生きてたって、どこに隠れてたんだよ」
「トイレにでも行ってたんだろ」
「誰にも見られずにか?」
「ベッドと姿見の隙間に隠れてたんですよ」横須賀が、得意げに会話に割り込んできた。「ヘッドボードと鏡の間には、一人分くらいのスペースはあるはずです。ベッドの下にも入れないし、他に隠れる場所なんてありませんよ」
「なんで隠れる必要が?」
「そりゃあ、お医者さんごっこでもしてたんじゃねえの」
「何をふざけたことを。玲華さんは、結婚をするまで男とは寝ないと、固く純潔を守っていたんですよ」
「君たちのどちらかが、玲華さんを停電の時に襲ったんだ」
「俺はやってねえぞ。おっさんこそ玲華ちゃんを狙ってたんだろ」
 いまにも口論へ発展しそうな男性陣を、慌てて零十がなだめる。
「まあまあ、一旦落ち着きましょう。これで、全員のアリバイについては大方把握でき……」
「玲華は」
 よく通る声である。大槻耕三郎は固く拳を握りしめ、膝を叩いた。
「玲華は……自分は母親のようにはならない。そう言っていました。私の妻、早苗と娘の玲華は血が繋がっていない。早苗も、若い頃はかなり遊んでいたようです。そんな義母ははおやを見て育った玲華が、簡単に男を離れに入れるとは、思えない。思いたくない」
 耕三郎は籐の椅子から、杖を支えにゆっくりと立ち上がる。
「このまま、朝までここにいても埒が明かない。玲華の部屋はこのまま鍵を閉めておきましょう。鍵は……虎井戸先生、あなたに預けます。皆さんも、よろしいですね」
「ですが、旦那様……」
「極端な話。申し訳ないが私は、この屋敷で、これから殺し合いが始まっても、一向にかまわない。……いずれにしても、もう玲華は帰ってこないのだから」
 耕三郎氏の言葉を合図に、男性陣はそそくさと自室に戻っていった。
 悲嘆に暮れる毒龍邸の主人の背中は、その失望の大きさを物語っていた。
 広間に戻ってくる際に閉ざされた玲華嬢の自室は、虎井戸零十によって、入り口に鍵が掛かっていることが、間違いなく確認された。
 相部屋の二人のもとに、最後に残った香坂奈穂が駆け寄る。
「零十教授、やっぱり、あの三人のうちの誰かが犯人なんでしょうか」
「まだそうと決まったわけじゃない」
「玲華は毒龍にさらわれて……襲われて……私、不安で」
「大丈夫だ、心配ないよ。必ず、真相を明らかにしてみせる」
 零十は美琴に視線を送る。
 こっちを見るなと、美琴は視線を送り返した。
 二人部屋にしては狭い和室で、早速、考察タイムが始まる。
 スペアがないから絶対に無くすな、と垣根芳子から散々釘を刺された鍵を弄びながら、虎井戸零十は布団に寝転がっていた。
「本当に外部犯の可能性はないのか。君は言い切っていたけど」
「玲華さんの部屋の窓の外は、雨で土がぬかるんでいました。いくら豪雨で足跡が流れたとしても、外からの侵入があったとしたら、もっと地面は荒れていたはずです。窓の内側の縁にも、水滴は一つもありませんでした。この屋敷には勝手口がありません。正面玄関も閉まっていて、周囲のガラス戸は雨戸で塞がれている。仮に運良く屋敷内に侵入できても、誰にも見つからずにあの複雑な廊下を通って、玲華さんの部屋まで行くのは不可能だと思います」
「こんな大嵐の日に、強盗なんてしないか……」
「虎井戸さんは、犯人についてどう思いますか?」
「真っ先に疑うべきなのは、第一発見者の垣根さんだろ。一回目の『龍の唸り声』の後、あの時、部屋を見たのは垣根さんだけだった。彼女を殺害したのち、玲華さんが消えた、と偽って報告する。停電の後、タイミングを見計らって悲鳴を上げる」
「部屋を見に行こう、って言い出す人がいる可能性もありますよね。わざわざ報告するメリットなんてないですよ。それでいうと、奈穂さんは、警戒心を持たれずに部屋の中に入れますね」
「どうやって部屋から抜け出したんだ? しかも、死体発見時に香坂君は、部屋の前にいた全員の後ろから現れたんだぞ。そんな忍者みたいな軽業ができるとは到底思えない。彼女に犯行は不可能だ」
「男性陣については?」
「うーん、確かにあの男たちは怪しいが、三人が結託して玲華さんを殺害した、って可能性もあるだろ。お互いがいがみ合っている風を装って、実は口裏を合わせてたんだよ」
「私は、単独犯だと考えています」
「どうして?」
「偶然の要素が多すぎる気がするんです。いや……もしかしたら、それすらも犯人によるものなのかもしれません」
「地鳴りを起こしたり、雷を落として停電させたりすることが? 本格的に、龍神様犯行説が濃厚になってきたな」
 あっそうだ、と美琴は自身の特大キャリーケースの中から、荷物を放り出し始めた。海外に何週間も滞在するのかと思うほど、巨大なケースである。土砂降りの中を、零十が雨合羽一つで、車の中からわざわざ持ってきたものだ。
「何の荷物なんだ、それ」
「レディはいろいろと準備が必要なんです」
「へえ……本当に山奥まで誰か埋めに行くのかと思ったよ」
「虎井戸さん、『これ』を持っていてください。いざという時のために」
 零十は訝しげに顔をしかめながら、その黒い包みを受け取った。
「日比谷君、もしかして何かわかったのか」
「なにもわからん」

          *

 翌朝、毒龍邸は濃霧に包まれていた。
 早朝に、あの『龍の唸り声』が鳴り、零十と美琴はその音に起こされなければならなかった。
 零十たちが食堂へ向かうと、このような事態にも関わらず、垣根芳子が朝食を準備してくれていた。大槻耕三郎と園部辰巳以外のメンバーが揃っていた。
「他のお二人は、まだお部屋ですか?」
「おっさんは、ドアをノックしたら声がしたよ。部屋から出たくないってさ」
 森光竜介は機嫌が悪そうである。
「旦那様は、朝食はお召し上がりにならないと仰せです」
「誰か毒でも入れてんじゃねえだろうな」
「いえ、そんなことは……」
「嫌なら食べなきゃいいでしょう」
 横須賀琉聖は涼しい顔で、パンを口に運んでいる。
 香坂奈穂は、無言で食べているが、あまり食は進んでいないようだ。
 朝食をぺろりと平らげた日比谷美琴は、使用人に聞いた。
「このお屋敷って、秘密の地下室とか、隠し通路とかありませんか」
「秘密かどうかはわかりませんが……ございますよ」
「ええ、あるの!? 早く言ってよ」
 食事が済んだ後、零十と美琴は垣根芳子にその場所を案内してもらった。屋敷の東側、風呂場の脱衣所から、地下へと下る階段があり、機械類が並ぶボイラー室に繋がっていた。この地下空間は、ちょうど風呂場と玲華の自室の間、その真下に位置する場所である。
 ボイラー室の突き当りに、畳一畳分ほどの壁が、数十センチ奥側に凹んでいる箇所があった。壁全体に擦れたような跡があるが、叩いてもコンクリートの冷たい感触が伝わってくるだけである。
「何度叩いても一緒だ。ただの壁だよ」
「この先は玲華さんの部屋の真下ですよね、ここで行き止まりですか」
「そうだと思いますが……」
「例えば、仮に秘密の隠し部屋かなんかがあったとして、二メートルを超えるくらいの日本刀で、こう下から」
「ベッドの上に仰向けで倒れてたんですよ。どうやって刺すんですか」
「玲華様のお部屋は、耕三郎様が新たに増築された場所で、鉄筋コンクリート造だったかと……」
「わかったわかった、冗談だよ」
「地下はこれだけですか」
「以前、お屋敷を所有されていた、蔦藪冨久雄様の時代に、地下洞窟があった、という記録が残っているのですが……どこを探しても見当たらないんです」
 美琴は思考モードに入っていた。黒髪の毛先を弄んでいる。
「虎井戸さん、もう一度、玲華さんの部屋を見せてください」
 
 
 玲華の部屋の扉に手をかけた零十が、おや、と声を出した。
「おかしい。扉が開いている」
「寝ぼけて開けちゃったのでは」
「まさか」
 扉を開けた二人の前に現れたのは、信じられない光景だった。
 玲華の遺体がない。忽然と、遺体だけが姿を消していた。
 ベッドのシーツはまっさらで、血痕はおろか、汚れも一切残っていない。
ヘッドボードの裏にも何もなかった。
「どういうことだ。昨日見たのは、すべて我々の幻想だったのか」
「そんなはずありません。もっとよく調べましょう」
 クローゼットの洋服、本棚に並んでいる書籍、隅の観葉植物、どれも昨日見たのと同じ状態であった。
 本棚に置かれた弥生土器を見た零十が、何かに気付いた。
「昨日見たのと、どこか違うような……もしかして」
 その時、再び『龍の唸り声』が轟いた。今度は音がかなり大きい。
 美琴はまたしても腕時計を見ている。
「悠長に時間なんて気にしてる場合か! おい、扉も開かないぞ。何が起こってるんだ」
 姿見を調べていた美琴が、南側の窓の外を見た。
 ようやく、轟音が止んだ。
「虎井戸さん、私たち、閉じ込められたみたいですよ」
「どうやらそのようだな」
「あと、玲華さんを殺した犯人がわかりました」
「なんだって、本当か」
「……毒龍は、三匹いるんですよ」



読者への挑戦状

 物語を一度中断してまで述べることではないが、登場人物の中に一人だけ嘘をついている人間がいる。
 毒龍邸と呼ばれる曰く付きの屋敷で、大地主の娘が殺された。この謎を解き明かす為の情報は、すべて作中に提示されており、現時点であなたは玲華嬢を殺害した犯人を指摘することができる。
 もし仮にあなたが、玲華嬢に日頃から小言を言われ恨みを持っていた使用人が殺した、などと思っているのであれば、それは全くの見当違いである。作者からすれば、トリック自体は本当に馬鹿げたものである。真面目に取り合うべき代物ではない。
 ちなみに、玲華嬢の部屋の扉についての詳細な描写が一切ないことに関しては、あまり触れないで欲しい。過去の二つの不審死は、確かに重要な要素のひとつではあるが、これについてもあまり考えなくて良い。
 数々の本格ミステリを産み出してきた先人たちにならい、敬愛の意を込めて、古典的作法に基づき、この一文を掲げなければならない。
 私は、読者――そして、青木書房に挑戦する。



【解決編】

「あれ、教授先生と眼鏡ちゃんは?」
 森光竜介が、廊下で鉢合わせた垣根芳子に聞いた。
「玲華様のお部屋を調べられると仰っていましたが……」
「一緒じゃなかったの?」
「そういえば、しばらくお姿を見てないですね」
 森光は、垣根とともに、玲華の部屋の扉の前まで来た。
「鍵掛かってんじゃん。ここの鍵、先生が持ってんだよね」
「そのはずですが……」
「どうしたんですか」
 横須賀琉聖もやってきた。背後には、香坂奈穂もいる。
「あのコンビ、どっか行っちゃったんだよ」
「嫌になって、二人だけで逃げ出したとか?」
「そんなわけねえだろ。この濃霧じゃ無理だよ」
「まさか……あの二人も毒龍に」
 怯えたように、奈穂が声を震わせる。
 四人はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、正面玄関の戸がどんどんと激しく叩かれる音を聞いて、皆は我に返った。
 垣根が慌てて玄関の戸を開けると、そこに立っていたのは、息を切らしながら、なぜかずぶ濡れの日比谷美琴と、それを横で見ながら呆れた様子でニヤついている虎井戸零十であった。
「お二人とも、どうなされたんですか」
「まあ、説明は後です。とりあえず彼女を着替えさせてから……」
「温泉に……はあ、はあ……温泉に、入らせてください」
 零十は美琴から、屋敷にいる全員を大広間に集めるよう指示された。
 地下水を汲み上げて沸かしただけの、温泉とは程遠い風呂に、美琴が入っている間、残された人々は、大広間で小一時間ほど、待たされなければならなかった。
 大槻耕三郎と園部辰巳も渋々といった具合に、各々の部屋から出てきた。
 ようやく広間に現れた美琴は、フォーマルスーツ姿だった。
「日比谷君、なんでその格好なんだ」
「これが私の戦闘服なんです」
 床の間には、文字が判別できないほど達筆な書の掛け軸が、飾られている。その前に躍り出た日比谷美琴は、小さく咳払いをした。
「さて、皆さん。大変、長らく、お待たせ致しました。これから、玲華さん殺害の真相を明らかにしたいと思います」
 他の者は皆、美琴の話にただ黙って耳を傾けている。
「最初に私が気になったのは……時間でした。『龍の唸り声』がしたとき――正確に計測したのは、二回目からでしたが――一回目と二回目はどちらも、音が鳴っていた時間は、ほぼ同じくらいだったかと思います。この約二十三秒が一体何を意味するのか。建物の構造に気付いてしまえば、あの死体消失のトリックの謎も、簡単に解き明かすことができるのです。
 垣根さんが見た、誰もいない空っぽの部屋が、本物の玲華さんの部屋ではなく、地下に作られた、全く同じ内装の別の部屋だったとしたら……あの状況を作り出すことが可能です。縦に連なった部屋そのものが、エレベーターのように上下に稼働する構造になっていて、仕掛けを作動させた際に、大きな音が鳴っていたとすれば、『龍の唸り声』についても説明が付くわけです。犯人はこれを偽装工作に利用したのではないか、と私は考えました。
 ただ、装置を起動するには、スイッチか何かが必要です。部屋の周囲に、それらしきものはどこにも見当たりませんでした。大抵、エレベーターのボタンは、内側と外側、両方に付いています。
 そこで、思い出したんです。玲華さんが他人に触れられるのを拒んでいたものがあったじゃないか、ってね」
「そうか、あの弥生土器か!」
「Exactly. 虎井戸さん、その通りです」
 舌に脂が乗ってきたのか、美琴は次第に饒舌になっていた。
「素人には触れづらい代物です。あの壺の中に、手を突っ込もうとする猛者はなかなかいないでしょう。玲華さんはもちろん、犯人もこの建物の構造について知っていたことになります。さらに、犯人は玲華さんを殺害するだけでなく、仕掛けを作動させている必要があります。
そもそも、犯人からすれば、屋敷中にあのような爆音が響き渡るのは、なるべく避けたいはずです。しかし、事実、死体発見までに二回も鳴っている。犯人には、そうせざるを得ない理由があったのではないでしょうか。
ここで一旦、昨日起きた出来事を整理してみましょう」
 
五時頃 パーティ開始
・玲華、開始直後離席。香坂が連れて行く。
八時頃 パーティ終了
・横須賀、玲華の部屋を訪問。入り口で少し話す。
・垣根と香坂が八時半頃まで大広間を片付け。
八時三十七分 「龍の唸り声」一回目
・垣根、玲華の部屋へ様子を見に行く。玲華がいない。
・部屋から出てきた園部と森光、廊下で皆と合流。
八時五十二分 「龍の唸り声」二回目
・直後に停電。
・森光、柱に足をぶつける。
九時十四分 電力復旧
・横須賀、皆と合流。
・垣根が悲鳴を上げる。玲華の死体発見。
 
「私は、停電が起きる前に、玲華さんはすでに亡くなっていたのではないか、と仮定しました。
 片付けが終わってから一回目が作動するまでの約十分間、この間、大広間の北側、玲華さんの部屋に続く唯一の廊下を、誰も見ていない時間が発生します。犯人は、この隙に玲華さんの部屋に侵入し、彼女を殺害します。廊下の突き当たりにある土器のスイッチを起動して、地下にあるダミーの部屋を一階部分まで上げます。ここで室内へ入った犯人に、予期せぬ事態が起きました。垣根さんが様子を見に来たのです。
 犯人は焦ったはずです。咄嗟にヘッドボードの裏に隠れます。垣根さんが、まだ玲華さんとの関係値が浅かったために、部屋の奥まで足を踏み入れなかったのは、犯人にとって幸運だったと言えます。
 また、さらに幸運だったのは、室内から二回目を作動した後、お屋敷が停電になったことでした。エレベーター装置は、おそらく油圧式で、建物全体を動かすのに莫大な電力を使うはずです。あの停電は、雷が落ちた影響ではなく、連続で装置を起動したためではないかと考えられます。
 そして、犯人は地下のボイラー室から脱出して、何食わぬ顔で他の人々の前に姿を現したのです」
「ちょっと待ってくれ」零十が手を挙げる。「ボイラー室の奥は、突き当りの壁だったんだぞ、どうやって脱出するんだ」
「さすが、鋭いですね。それについては、私と虎井戸さんが、あの部屋に閉じ込められた件についてお話ししなければなりません――地下のダミーの部屋は、もう一つあった、、、、、、、んですよ」
 
          *
 
「今朝、私と虎井戸さんが玲華さんの部屋を調べようと、室内に入った後、何者かが、外側から装置を作動させました。あの四回目の起動時間も、三回目の計測と同じ、約四十七秒間でした。これまでよりも倍の時間がかかっていたのです」
「三回目も計測した、ってことは、日比谷君は起きてたのか」
「当たり前です。あの部屋には、玲華さんの遺体はなかった。そもそも私たちが入ったのは、三回目の起動で一階まで上がった、地下二階部分の部屋だったのです。四回目の作動時、地下に移動しているため、もちろん扉は開きません。窓の外が暗くなったことで、私たちは閉じ込められたことを悟りました。並べられた本や洋服についても、同じものが三セット用意されていたのでしょう。ちなみに観葉植物は、本物の部屋にも人工物が置いてありました。玲華さんは植物の世話をするのが面倒だったのかもしれません。虎井戸さんが、ダミー部屋の土器がレプリカであることに気付いたのはさすがでした。
 私は、部屋からの脱出方法について、だいたい予想が付いていました。部屋の西側にあった姿見です。もちろん根拠はあります。正面玄関を入った先に飾られていた、絵画です」
「玲華さんが描いた龍神湖の絵か。あれがどうしたんだ?」
「あの絵は、俯瞰して描いた技法などではなく、本当に高い建物の中から描かれたのではないかと思ったんです。推測通り、姿見は可動式で、内側から開けられるようになっていました。玲華さんの部屋を高い位置まで上げることができれば、姿見を開けた先に、ちょうど屋敷の西側にある龍神湖を、眺めることができるはずです。
 三つの部屋はすべての部屋が同じ構造になっていて、犯人はこの仕組みを利用して、地下一階のダミー部屋からボイラー室に抜け出したのです。
 私たちがボイラー室へ行ったのは、三回目の起動後。地下二階のダミー部屋の下は動力源ですから、当然、行き止まりになるわけです。奥の壁にあった、何かが擦れたような跡は、装置が何度も起動されたために付いたものでしょう」
「だから、我々があの部屋から脱出したとき、外はボイラー室じゃなかったのか」
「垣根さんの仰っていた地下洞窟の話は、本当だったんです。四回目の作動で、建物の状態が元通りになり、地下二階のダミー部屋も最深部まで戻りました。姿見の先は、巨大な地下洞窟だったのです。起動の度に轟音が鳴っていたのは、この地下洞窟に反響していたからでした。まあ、それからなんやかんやあって、深い霧の中を命からがら屋敷まで辿り着いたわけです」
 零十は、岩肌を伝っていた美琴が、滝壺に落ちたことは黙っていた。
「この仕組みがわかれば、過去の二つの事件についても説明できます」
「事件? あれは不幸な事故じゃなかったのか」
「いいえ、れっきとした殺人です。
 まず、早苗夫人のケースですが、装置を起動してダミーの部屋に夫人を誘い込みます。殺害後、再び起動。最深部から滝まで運び、滝壺で溺死したように見せかける、といった具合です。そもそも、雪が降るほど寒い日だったのだから、川や滝は凍っていたのではないでしょうか。
 次に、前の使用人である、高柳絹代さんのケースですが、部屋に呼び出した後、装置を起動、ナイフか何かで脅して、慌てて窓から逃げようとしたところ、転落。池の傍の岩に頭部を打ち付けた。これも、遺体にかなりのダメージがあったはずです。
 いずれにしても、この二人が建物の構造について詳しくなかったことが前提ですが、警察の初動捜査があまりにもずさんだったといえます」
「それで……誰がその二人を?」
「確証はありませんが、おそらく玲華さんです。すべての犯行が遂行可能なのは、玲華さん以外に考えられません。
 耕三郎さんは、玲華さんの仕業だと気付いていたのではありませんか。あなたは、事件の解明に対して積極的ではなかった。それは、屋敷の構造が明らかになることで、過去の事件の真相が明るみに出ることを恐れたからではないですか?」
 大槻耕三郎は、なおも落ち着き払っていた。
「何を言うかと思えば……全部、君の空想じゃないか」
 美琴のあまりにも飛躍し過ぎた推理に、誰もが懐疑的な眼差しを向けていた。
「やはり、言葉で説明するより、ご覧頂いた方が早そうですね。皆さん、お屋敷の外に回ってください。そろそろ霧が晴れてくる頃です。虎井戸さんは、例のやつ、お願いしますね」
「はいよ。仰せのままに」
 一同が正面玄関から出た瞬間、またしても、あの地鳴りに似た轟音が鳴り響いた。昨日の夜から数えて、五回目の「龍の唸り声」である。
 見てください、と美琴は屋敷の東側を指差した。
「あれが、毒龍の正体です」
 霧の中から浮かび上がったのは、塔のような建物だった。玲華の部屋にあたる場所が、ビルの地上三階相当の高さまでせり上がっていた。
「信じられない。何なんだ、これは」
 園部は、ただ茫然とその光景を見上げていた。
「この毒龍邸の改修工事の際に、園部さんの会社が関わっていたのではありませんか」
「当時はまだ、いまのポストまで昇進していなかったから、こんなことになっていたなんて……全く知らなかった」
「なるほど、そうですか」
 美琴は大槻耕三郎の方に視線を投げる。屋敷の主人は、沈黙を貫いていた。
 森光が周囲を見回した。
「ん、人数が足りないような……まだ全員揃ってないんじゃねえか」
 ――次の瞬間。
 塔の最上階の窓から、人影が外へと乗り出し、そのまま落下した。
 一同から、声にもならない悲鳴が上がる。
 落下地点に全員が駆け寄ると、虎井戸零十が、もう一人の人物を抱きかかえる形で、地面に片膝をついていた。
「虎井戸さんに、先を越されたみたいですね」
「こんなにうまくいくと思わなかったな……間一髪だった」
「毎回いいとこ全部持ってくんだから」
 零十の背中から伸びているのは、広がったパラシュートだった。前日に美琴からもらった包みの中身である。十数メートルの高さから、たったいま落下し、見事に着地したのだ。零十の腕に抱えられた人物は、小さくうずくまり、ただ押し黙っている。
「ここで失うわけにはいかないからね。僕の大切な教え子、、、、、、を」
「玲華さんを殺したのは……香坂奈穂さん、あなたですね」
 
          *
 
「なぜ、香坂君が犯人なんだ?」
 大広間に、再び全員が集結していた。 零十は腕を組みながら立っている。
「園部さんと森光さんは二回目が鳴ったとき、私たちと一緒にいたので違います。横須賀さんも、死体発見時まで玲華さんの部屋に入ったことのないような口ぶりでした。垣根さんが正面からナイフで刺せるほど、玲華さんは油断しないと思います。耕三郎さんだったらなおさらです。むしろ返り討ちにされるかも」
 香坂奈穂は、全員から少しばかり離れた位置で項垂れていた。
「皆さんのアリバイを聞いたとき、香坂さんは『お風呂に入っていた』と答えました。私が最初に疑いを持ったのはこのときです。あの凄まじい轟音が、しかも二回も鳴っていたのに、彼女は呑気にお風呂に入っていたことになります。私だったら、一回目の時点で、驚いて風呂場を飛び出すところですが、香坂さんはそれをしなかった。なぜなら、この音の正体を知っていたか、もしくは作動した張本人だったからです」
「何人かで共謀した可能性もあるだろ」
「複数人で行った計画的な犯行であれば、玲華さんが実行したように、もっと上手いやり方があります。今回はあくまで衝動的な殺人で、犯人が機転を利かせて、偽装工作に及んだと考えた方が自然です。ボイラー室から出た犯人は、停電の最中に、脱衣所で返り血の付いた服を脱ぎ、風呂場の浴槽のお湯で顔や手に付いた血を洗い流します。そして、何事もなかったかのように、全員の前に姿を見せた。邸内で起こった現象をすべて完遂できるのは、香坂さんしかありえません」
「じゃあ、動機は何なんだ?」
「これは、私の想像ですが……それは、『私』かも」
「日比谷君が? ……なぜだ」
「香坂さん、虎井戸さんをこの屋敷に呼ぶように言ったのは、玲華さんなのではないですか」
 顔を上げた香坂奈穂は、虚ろな目をしていた。
「玲華が、毒龍に呪われてるっていうから、零十教授にお願いして……」
「嘘。あなたは噓を付いている」
 すると、香坂奈穂は口元を抑えて、えづき始めた。それが落ち着くと、憑き物が落ちたように喋り出した。
「私が零十教授のゼミに入ったって言ったら、玲華は、今度の誕生日に先生を連れて来て、って無茶なお願いをしてきたんです。何とか強引に気を引いて、来てもらえましたけど、そしたら、知らない地味な女が一緒について来て。玲華はずっと不機嫌でした。パーティの最中にあの部屋で言われたんです。あの女誰、って。責任取ってあの女を殺してってナイフを渡されました。そうしないとあなたの秘密をばらすって。正気じゃないとは思いましたよ。でも、私もどうしていいかわからなくて」
「秘密って?」
「もうこの際だから言いますけど、私、ここにいる零十教授以外の男の人全員と寝てるんです。もちろん耕三郎さんとも。玲華は、地下の部屋だったら自由に使っていいよ、って」
「香坂君は『お腹の子の父親を探して欲しい』と確かに僕に言った。あれは、玲華さんのことではなくて、君自身のことだったんじゃないのか。きっとあの言葉は、嘘偽りのない本心から出たものだった。君は、カフェインやアルコールの類を避けていた。雨が降ったときも、体を冷やさないように真っ先に屋内へ入っていた。意識的に自分の体を守るように行動していたんだ」
「しばらく生理が来なくて……産婦人科にも行ったんですけど、精神的なものだって。玲華は私が誰かの子を妊娠してるって、思ってたみたいです。玲華はそういうの、敏感に気付く子だから……」
「どうして、何度もナイフで刺したりしたんだ」
「龍が噛み付いた跡みたいじゃないですか?」
「素人は、死亡を確認するまでに何度も刺すんです。あなたはそうやって自らに言い聞かせて、そして自分自身に嘘をついた。嘘を嘘で塗り重ねて、あなたはその強迫観念に苦しめられていった。……あなたは、これからもっと苦しむ必要がありますよ」
 香坂奈穂の嗚咽が、大広間にこだましている。
 
          *
 
 封鎖されていた山道が開通し、程なくして警察が毒龍邸に到着した。すぐに現場検証が行われ、香坂奈穂の泊まっていた部屋からは、血痕の付着した洋服が発見された。結局、零十と美琴が解放されたのは、夕方になってからだった。
 二人は、垣根芳子に紹介してもらった蕎麦屋に入った。客は他に誰もいなかった。
「幼い頃から病弱で、あまり外へ出ることができなかった玲華さんのために、大槻先生は、わざわざあの部屋を増築して、山々と湖の大自然を一望できるようにしたらしい。まったく、手間の掛かることを……」
 美琴はお構いなしに、もりそば定食の蕎麦を啜っている。
「そういえば、パラシュートで降りる直前に、あの部屋で、香坂さんから何か言われたんですか?」
「ああ、検証のために室内に入ったとき、気付いたら後ろに香坂君がいたんだ。彼女は、たった一言だけ。――『最後に私を抱いてください』ってさ」
「それで、なんて答えたんですか」
「学生と寝る趣味はない、と言葉が出る前に、彼女は身を乗り出していた」
「大将! そば湯ください」
 美琴はこの後、カツ丼を追加注文した。
 店を出ると、けたたましい蝉の声が聞こえてきた。山の端に陽は落ちかけ、辺りは夕暮れ色に染まっていた。
「いくら人の金だからって、食い過ぎだ」
「頭脳労働には、エネルギーが……うっ、必要なんですよ」
 経産婦もびっくり、といった具合に、美琴の下腹部は大きく張り出していた。
「君も、毒龍に呪われたのかい」
「見ないでください……ただの、胃下垂ですから」
「日頃の悪しき生活習慣が祟ったな」
「う、産まれる……」


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