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【ショートショート】失我論

私は、何よりも、「私」が欲しいんです。私には、永い間「私」がいない。

私が何を言っているんだと思われても仕方ない。何だ、そこにいるじゃねえか、それがそうでないのなら、じゃあお前は誰だ?なんて言われても、それでもいないものはいないんです。

どうも、私は固有ではない。

どこにいても、どこにでもいる人で、どこにでも替えのある、いわばコンビニに売っている充電器のコードのような、確かにそれ自体は固有のもので、全く同じものは、というより全く同じ経験をしたものというのはないのだけれども、しかし、それは他人から見れば、なるほど確かに製造時間は違うけれど、ただしかし、工程も結果もまるで同じではないか、僕には違いなど幾分も見えないが、などと言われるくらいのものでしかなく、つまりちっとも個性というものを持ち合わせていないのです。

しかし、まあ、実用性はあります。能力はある程度持ち合わせています。

顔が赤くなるほどに恥ずかしい自尊心が露呈しているようですが、それは少し違います。

確かに、私もその内なる昂りに身を委ね、悦に浸りながら、女を抱くそれのように自らをぎゅうと抱きしめて、そうしてそのまま果ててしまうような、元気で快活で豪気な時期というものもありますが、惜しくも毎回短い。

早漏極まりないのでありまして、普段は憂鬱で気だるくて、などというとあたかも自分がいやに元気で快活で豪気な他人を馬鹿にしているようにも取られかねないのですが、ともかく普段は臆病に負けて常に捨てゼリフを吐き散らかしたい思いにかられながら、うまく物にもならず、身の丈以上のことを諦めて、いわゆる賢者モードのような脱力感に襲われているのです。

そんな時(今こそまさにその時なのですが)であっても、私は自分が使える人間だということができます。

そのことを考えると、少なくともこの評価は若干の客観性はあるように思えてくるのですが、そんなことはないのでしょうか。

これもまた自惚れの現れであり、少しの自惚れすらも隠そうなどというナルシズム極まりない、卑しい性質なのだ、としか思えないのであれば、それは全てではないにしても、純然たる事実であり、弁解の余地もないですから、どうぞ好きになさって。それでも私が有能だというのにはあるわけがあるのです。

私は、どうにも人付き合いができません。昔っからそうです。

純に親しい友好関係というものはまやかしに過ぎない、なんてとんだ妄言を、真面目くさった顔で言い放てるくらい、私と人々との間には不純物が混ざっているのです。義務・責任・常識・道徳・良心・プライド……。

例えば、幼稚園の頃には、別段仲良くもない余り物と宿泊学習をしました。「良い子」である私はそうしなければならないのでした。

小学校に上がると、不潔で、不細工で、匂いのきつく、少し阿保な男の子を自分のグループに誘い、遊びました。いじめはいけない。「良い子」であるためには、そうせざるを得ませんでした。

中学校に上がると、カーストが目立ち始めます。私は真ん中あたりにいました。初めての中間テストを皮切りに、勉強ができることが明るみになり、そのまま生徒会長になって、私は解脱を果たしました。結果、皆「優等生」には平等に接してくれるようになりました。まるで他の先進国からの訪問者のように、皆もてなしてくれました。

高校では、バンドを始めました。私は、今度はリーダーにはなりませんでした。部長は気弱で生真面目な子が、副部長は寡黙なカリスマと勝気な女の子がなりました。「いいやつ」に権力は邪魔だったのです。結果、私は無事、「いいやつ」を貫きました。歌が、うまかったからです。少なくとも、その辺の中では一番でした。

そして、今も大学のサークルで私の評価は「いいやつ」とされているそうです。

嗚呼、なんて薄いのでしょう。常に薄氷を履むような、紙一重の、いいえ紙なんかよりもっと薄く、少しでもこっちに寄りかかられたらビリビリに破れてしまうほど薄いスクリーンに隔てられた影絵のような関係性。

結局、私と他人をつないでいるのは、能力でしかないのです。

皆、スクリーンの向こう側で、スクリーンに映し出された私の仕事(私にとっての交友は例外なく義務からくるのですから仕事以外の何物でもありません)、太宰風に洒落めいていえば「お道化」を見て、けらけら嘲り、安心しているのです。

誰も、私の内なるものは知りません。興味すらないのだと思います。目に見えているものは、その人にとっては正義であり、その人にとっては純度百パーセントの世界なのですから、当然とも言えます。

問題は、皆それに気づかず、画面上のお仕事を見て、奥でバラバラの絵を必死につなぎ合わせて世界を取り繕っている演者を分かり切った気になっていることです。

いわば、それは愉快に子供達と戯れる着ぐるみを見て、その中の人はさぞかし親しみがあり、快活で、面白いのだろうと決めつけているようなものです。

私の周りには、たくさんの人がいます。切っても切っても湧いて出てくるほどに、友人がいるようです。

彼らはどうやら私を好いてくれている節があるようで、私が流石に疲れて、金欠を理由に(金欠は事実であり、それがまた私を疲弊させ、なんなら真に純然たる交友を遠ざけてもいるのですが)誘いを断っても、私がいけるようにと融資を申し出てくれる人もいるほどなのです。

「いい人」である私は、そんなことをされたらひとたまりもありません。自らをその人と繋ぎ止めているハーネスそれ自体を引き合いに出された時、私は崖下に落ちる恐怖から逃れるために、すぐに首肯してしまうのです。

そんなことをしても、姑息な気休めにしかならないことは理解していても、いざ下をみると、なんだかいたたまれない気持ちになり、下に行ってしまったら、ずうっと崖から誰かに覗き込まれるたびにそう思われ続けるのだと思うと、その屈辱に耐えきれず、発狂しそうなまでに惨めな感じがしてきて、どうにもならなくなり、媚びるように首肯するのです。

でも、彼らの求める私は、「私」ではありません。

彼らは私のお仕事を気に入り、そのお仕事見たさに入場料を払っているだけなのです。

そのことは常に私を締め付けます。いくら安らぎそうな空間を作られ、いくら純真な賛辞や純粋な好意を向けられようと、それは確かに純粋なのですが、そんなことはもはや関係なく、私は目の前でそっくりさんの賛辞をぶつけられているような、芸能人に間違えられた哀れなカフェ店員のような、そんなどうしようもない慚愧に見舞われるのです。

私に、「私」としての価値など、どこにもないのです。

同じような立ち位置の者さえいれば、私以外でも私なのです。

私は、これまでずうっと能力で価値を作り上げ、有能だということだけを頼りに他人と付き合ってきました。

有能である自分は必要とされている、それがそこにいるただ一つの理由であり、許可でさえありました。

私よりも有能な人が出てくる、ただそれだけです。私がいらなくなる、私の存在する意味をなくすには、たったそれだけでいいのです。

つまり、私など、それっぽっちの価値しかないのです。

これを自覚しながらお仕事をするのも、限界に近づいてきました。現実であれば、あるいはこれが本当の「仕事」であれば、転職すれば良いのでしょうが、あいにくそれだけの価値は私にはありません。

本当は私に能力などないからです。

丸腰のまま戦えるだけの能力、誰にも引けを取らない能力が私にはない。

勉強も、運動も、音楽も、センスも、「お道化」も、何もかもがどこまでも中途半端で、単体で取り出せばそこらの紙くずと変わらぬ質のものばかりです。

かといって、何か一つ誰をも防げぬ武器を作ろうなどという気概は生まれつき持ちあわせていません。

本当に、熱がないのです。今まで、人生で本気になったことなど一度でもありません。

どんなものも、全て周りの他人に認められるクオリティーになりさえすればどうでもよく、そのものへの感情はそれ以上でもそれ以下でもないのです。

好きだから報われなくても頑張るなんて、たとえ血反吐を吐いたとしても理解できないと思います。

ですから、好きで好きでたまらなくて、できない自分がたまらなくたまらなく悔しくて、努力をしようなんてことにはなったことがないわけで、そのために私には他人に胸をはって誇れる特技は一つもありません。

全て誰かの格落ち、二番煎じに成り果てます。能力だけで生きている私は、その事実に殺人予告にも似た恐怖を感じ、やはり持ち前の臆病さが不安に耐えきれずにせっせと「お道化」を選び取るのです。

私は、「私」が欲しかった。

能力なんかなくたって、「お道化」などしなくたって許される固有の価値が欲しかった。

私にはやはり「私」がいないのです。

私という容れ物はずうっと空っぽのままなのです。

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