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【ショートショート】また乾杯しよう

「いらっしゃいませ。」

1人しかいない店員は、明るく、しかし背を向けたまま、そう挨拶した。食器でも洗っているのだろうか。客が入ってきたというのに、一向にこっちの方を向く気配がない。

「ご注文はビールでよろしいでしょうか?」

彼女はむこうを向いたままそう尋ねた。唐突にメニューを決められて、僕は流石に面食らってしまい、聞き返した。

「あの、ちょっと、他のメニュー見てから決めてもいいですか?」

「すみません、当店はビールしか扱ってないんです。」

そう言われて、カウンターテーブルに視線を落としてみると、確かにメニュー表にはただ1つ「ビール」とだけ書いてあった。

「あ、なるほど。そしたら、ビールで大丈夫です。」

「かしこまりました。こちら当店特製のビールでして、少しお時間をいただきますが、よろしいでしょうか?」

特製のビール。聞き慣れない響きに、少し好奇心を刺激される。しなければならないことはあるが、時間に余裕はある。そんなに急ぐ必要もないだろう。

「ええ、大丈夫です。それでお願いします。」

「かしこまりました。それでは、少々お待ちください。」

彼女はそう言って、こちらを見ることもせず、背を向けたまま作業に取りかかった。

しかし、変わったバーである。店員が一切客の方を見ないというだけでも、随分と変な店だが、おかしなところは他にもあった。

まず、店のつくりである。店は地面から50cmも上がったところにあり、店内はカウンターのみで、テーブルも椅子もない。まあ、これだけなら立ち飲み屋とさほど変わらないのだが、問題はその広さである。

ざっと見ても幅1m、高さ2m、奥行き1.5mほどしかない。その上、壁は透明なアクリル板でできているため、見た目はほとんど電話ボックスだった。これだけせまいと、客が1人でも入ったらいっぱいになってしまう。

そして、何よりおかしいのが、その立地だった。信じられないだろうが、この店はなんと山奥にあるのだ。

山奥といっても、田舎とか村とかそんなレベルではない。道すらも舗装されていないくらいの、まさに山中に、このバーはひっそりと佇んでいる。

こんな山奥にあって、異様にせまい店内で、メニューも1つしかなく、1人しかいない店員は常に客に背を向けている。

なんとも不思議なバーだ。こんなんでやっていけているのだろうか。僕は気になって、特製ビールを丁寧に作っている店員に話しかけた。

「しかし、中々の山奥ですね。お客さん来るんですか?」

「ええ、結構みなさんいらっしゃるらしいです。」

「らしいってどういうことです?」

「実は私、今日が初めてで、他の人がそう言っているのを聞いただけなんです。」

非常に慣れた仕事ぶりから、彼女が新人だということにも多少驚いたが、それよりも他に従業員がいるということが意外だった。そんなに儲かっているのだろうか。

「そうなんですか。驚きました。にしても、みなさん、どうやってこの場所を知るんですかね。」

「他の人が言うには、『気がついたら着いていた』という方が多いらしいです。」

「へえ。変わってますね。」

「お客さんは、どうしてここへ?」

僕は一瞬言葉に詰まってしまった。あんまり初対面の人に言うことのできるような理由ではないからだ。けれど、もうこの際、そんな体裁なんて気にしていても仕方ない。言ってしまってもいいだろう。

「実は僕、今日死ぬつもりで来たんです。誰にも見つからなくて、1人で静かに死ねる場所を探して、こんな山奥に。」

「......。」

彼女は何も言わなかった。見てみると、作業の手も止まっている。

「すみません、興味ないですよね。」

沈黙の気まずさを取り繕おうとして、話を終わらせようとすると、少し鼻の詰まったような声で彼女が言った。

「ごめんなさい。言葉が詰まってしまって。失礼ですが、何があったかお聞きしてもよろしいですか?」

「聞いてくれるんですか?」

「もちろんです。」

そう言われると、話さないわけにはいかない。いや、本当は話したかったのだと思う。ずっと自分の中で抱えていた苦しみを誰かと分かち合いたかった。僕はこれまで誰にも話せなかった胸の内を、包み隠さず彼女に話した。

「......妻が、事故で亡くなったんです。それも僕のせいで。去年の夏の頃でした。妻と旅行に行ったんです。僕が運転していたんですが、交差点を直進しようとしたら、横から車が。その衝突で助手席に座っていた妻は、そのまま亡くなりました。事故の原因は僕が標識を見落としたことでした。僕の不注意のせいで、妻は命を落としたんです。」

「その贖罪、ということでしょうか。」

「ええ、その通りです。本当は僕なんかじゃなく、妻が生き残るべきだった。いい人でした。僕なんかにはもったいないくらいに。僕はそんな人の未来を奪ってしまった。あまりにも大きな過ちです。それなのに1人だけのうのうと生きていくなんて、僕にはできない。」

「......きっと、奥さんは気にしてないと思いますよ。」

少しの沈黙の後、彼女は言った。その気遣いにかえって胸の傷がえぐられる思いがした。

「そう......だといいんですけどね。きっと妻は、僕のことを恨んでると思います。」

「どうしてそう思うんですか。」

「あの時、妻は電車で行こうって言ってたんです。それまでも度々、僕は事故を起こしかけていて。妻はそれを心配していました。でも、僕はそれにイラッとしちゃって。自分の運転に自信があったんです。だから、プライドを傷つけられた気がして、しかも相手が一番大事な人だったから、僕もつい意地を張って、車で行くって押し切ったんです。その結果がこのザマ。妻の言う通りでした。あの時、妻に従っておけば彼女は死なずに済んだ。それが僕のちっぽけなプライドのせいでこんなことに......。だからきっと、いえ、絶対に妻は僕を恨んでいます。」

その時、それまでずっと聞こえていた流水音が止まり、液体がグラスに注がれる音が聞こえてきた。そろそろビールができるのかもしれない。

「あの、もうそろそろでビールできます?」

話題を変えようと、白々しく分かりきった質問をしてみたが、返ってきた言葉は思いもしないものだった。

「お客さんは、こんな話を聞いたことはありますか?」

「はい?」

「亡くなった人は、1回だけ現世に戻り、最愛の人に会うことができるんだそうです。」

「え?」

一体、何を話しているんだろう。唐突な迷信話に困惑している僕にかまわず、彼女は話を続けた。

「乾杯はもともとどういう儀式かご存知ですか?」

「はい?いや、分からないですけど、さっきから何の話をしているんですか?」

「乾杯は今でこそ、宴会の開始の合図といった意味合いしか持たないですが、実は、昔はお神酒を神様や死者に捧げる儀式だったそうです。お酒にはあの世とこの世を繋げる不思議な力があるんですよ。」

一体、何の話をしているのだろうか。僕には彼女の意図がさっぱり読めなかった。

「さあ、お待たせしました。こちらが、当店特製ビールになります。」

カウンターにキンキンに冷えたジョッキが置かれる。そこにはいわゆる普通の生ビールが注がれていたが、1つだけ普通ではない点があった。

氷が入っているのだ。ビールに氷。お店ではもちろん、家でも普通はこんな飲み方をしないだろう。けれど、僕はこの飲み方をする人物を1人だけ知っている。

『いや、おかしいって!普通、ビールには氷いれないよ!』

『え、そうなの?全っ然知らなかった!まっ、いっか。冷えて美味しいでしょ!』

そう言って天真爛漫に笑う君を見たあの日、僕は一瞬で恋に落ちたんだ。間違いない。これは、僕と妻が初めて出会った日の思い出のビールだ。

「まさか、君は」

そうつぶやいて、僕はゆっくりと顔を上げた。そこには、あの日から今日までひと時も忘れたことのない、最愛の人が立っていた。

「恨んでるわけないでしょ、バカ!」

「そんな、どうして」

「どうしてはこっちのセリフよ!何勝手に死のうとしてるのよ!びっくりしたんだから。落ち込んでないか心配で見にきたら、こんなことになってて、私、急いで飛んできたんだから。ほんと間に合ってよかった。」

「すまない。でも、どうして僕なんかを助けに来てくれたんだ。そんな資格、僕にはないのに。」

「そんなの決まってるじゃない。大好きな人が死のうとしてるのよ。逆に、助けない理由ある?」

「でも、僕のせいで君は......!あの時僕が慢心して、標識を見落としてさえいなければ、君は死ななかったじゃないか!僕が君を殺したんだ!」

「私だって気がつかなかった!横の道にも、車にも、標識にも!あなただけのせいじゃない!それに、あなた1つ勘違いしてるわ。」

「勘違い?」

「別に、私、あなたの運転を信用してなかったわけじゃない。あの時はただ、観光として特急列車に乗りたかっただけ。確かに運転はちょっと危なっかしいところあったけど、でも、私はあなたとのドライブが大好きだった。」

初耳だった。まさか、そんなことを思っていてくれたなんて。

「だから、そんなに全部背負わなくていいの。お願いだから、これ以上自分を責めないで。」

妻はそう言って、優しく微笑んだ。その目尻には、キラリと美しく雫が光っている気がした。

「......僕を恨んでないのかい?」

「当たり前じゃない。」

「......ありがとう。君は、本当に優しいな。」

「あなたが考えすぎなだけよ。さっ、折角だし、乾杯しましょっ!氷も溶けちゃうわ。」

ビールを見てみると、さっきの半分くらいの大きさになっていた。僕は結露して水滴まみれのグラスを持ち上げ、前に突き出した。

どこから取り出したのか、妻はもうすでにグラスを手にしているようだった。2人で目くばせをする。

「「乾杯!」」

グラスとグラスのぶつかる音が、キンと響く。冷えたビールがカラカラに渇いたのどを潤し、さっきまで死のうとしていたはずの身体が、どんどんと生き返っていく気がした。

これだ、この味だ。懐かしい。ちょっとだけ薄く、ちょっとだけ弱いのどごし。飲みやすくはあるけれど、何だか物足りない。

『これさ———』

『うん、薄いね』

そう言って2人笑い合ったあの日がまざまざと蘇ってくるような気がした。

そんな思い出に浸りながら、僕は一気に半分くらいを飲みあげて、勢いよくジョッキをテーブルに置いた。顔を上げると、妻がニヤニヤしながらこっちを見ている。

「やっぱり———」

僕が言いかけると、それを遮るように妻が続きを口にした。

「薄いわね」

悪戯っぽく笑いながら妻が言う。あの日と何も変わっていない。そうして、僕らは一瞬黙って見つめ合って、あの日のように大きな声で笑い合った。

それから、僕らは色んな話をした。生きている時の昔話、妻が亡くなってからの僕の人生のこと、妻の死後の様子。話は尽きなくて、時間は驚くほど早く流れていった。

「あっ、もうビール飲み切っちゃうな。おかわりもらえる?水でもいいけど。」

「あっ、ごめん、言ってなかったけど、うち1杯しか出せないの。」

「そうなんだ。ふうん、天界もケチなんだな。水くらい出してくれてもいいのに。」

「そんなこと言わないで。むしろ1杯無料で飲ませてあげてるんだから、こっちは感謝してほしいくらいよ。」

「それもそうだな。悪かったよ。ありがとう。」

「ふふっ。ああそうだ。折角ならさ、最後、飲み干す前に乾杯しない?」

「乾杯?今?別にいいけど、変わったタイミングだな。」

「いいじゃない。ほら、グラス持って!いくわよ、乾杯!!」

「乾杯!」

もうぬるくなっているビールを喉に流し込む。最後の一滴まで飲み干して、グラスを置くと妻が言った。

「ねえ、あなた、乾杯の意味って何か知ってる?」

「意味?」

「うん。みんな何気なく飲み会とかで乾杯してると思うけど、乾杯にはもともと『相手の幸福とか健康を願う』っていう意味があるんだって。」

「ふうん、知らなかったな。それが、どうかしたのか?」

「鈍いわね。だから、元気でねってことよ。」

「元気でねって、そんなお別れみたいな......」

酔いで重くなった頭を持ち上げ、妻の方を見て、僕は驚いた。身体が、半透明になっている。まさか。

「消えかかってるのか?」

「あ、バレた?」

「どうして......」

「お酒、なくなっちゃったからね。」

俺はビールが出てくる前の妻の話を思い出した。妻は言っていた。お酒があの世とこの世を繋げていると。

つまり、このバーはお酒の力で現世につなぎ止められていたのだ。だから、お酒がなくなったら、店は消える。よく見ると、店の壁も床も天井もみな薄くなっていた。

「どうして言ってくれなかったんだよ。言ってくれてたら、飲まなかったのに。」

「だからよ。言ったらあなた多分ずっと飲まないでしょ。それじゃ、いつまでもあなたがここから出られないじゃない。」

「僕はそれでよかったんだ。君といられるなら、ここから出られなくたっていい。」

「ダメよ。それはダメ。」

「どうして!」

「あなたには生きてほしいの。私の分まで。」

まっすぐと僕を見つめる妻の目は、あまりにも澄んでいて、それでいて、どこか潤んでいるようだった。

「死のうとするほど、私の生命を大事に思ってくれてるなら、その分生きて。その目で、私の知らないことをいっぱい見てきて。私にはできなかったことをたっくさんして、いつか話して聞かせてよ。私、待ってるから。ずっと、ずっと、いつまでも待ってるから。」

一雫の涙が、僕の頬を濡らす。ようやく気がついた。そうか、もう僕の生命は僕だけのものじゃないんだ。そう思うと、堰を切ったように涙が溢れて止まらない。

僕は、妻と生きてるのだ。妻の分まで、生命を背負っているのだ。

生きよう。どれだけつらくても、どれだけ苦しくても、どれだけ罪悪感に苛まれようとも、僕は生きなければならない。

「ああ、分かったよ。僕は、生きるよ。君の分まで。これからたくさんの世界を見て、君の知らないことをいっぱい経験して、君にお土産を持っていく。必ず、そうするよ。」

すると、妻はきっと口を結んで、袖で涙を拭い、さっきの笑顔を取り戻して言った。

「さあ、そろそろ時間だわ。最後に、1つだけ約束しましょ。」

「約束?」

「うん。約束。」

妻はそう言って、空になったグラスを掲げながら、笑った。

「また、乾杯しよう。」

同じく空になったグラスを掲げ、僕は答えた。

「ああ、必ず。」

その瞬間、目の前が真っ白に光りだし、僕はあまりのまぶしさに目をつむってしまった。

目を開けると、そこにはもうバーはなかった。目の前は真っ暗な森。僕は50cmほどの高さの椅子に立っていて、その手にはグラスの代わりに縄が握られていた。どうやら、首に縄をかける寸前だったらしい。僕は、バーに入ったばかりの妻の言葉を思い出した。

「ハハッ、『気がついたら着いていた』か。」

木の枝にかかった縄を外し、椅子から降りる。見上げると、今日は満月だった。

この光を、忘れてはいけない。いや、この光だけじゃない。これから目にするもの、聞くもの、食べるもの、触れるもの、その全ての感動をこの心に刻み続けよう。

柔らかな月光に包まれながら、僕はこの先、何があろうと、どんな些細なことだろうと、自分の中にこの美しい世界を残し続けようと、固く誓った。

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