【ショートショート】ツナギビト
ちょうどこの時期になると、彼女を思い出す。小学生の頃、都会から引っ越してきたばっかりで、上手く馴染めなかった私を唯一助けてくれたあの娘のことを。
今から30年前、小学生だった私は、父親の仕事の都合から、よく引っ越しをしていた。
小学生3年生になる年、父は海外に飛ぶことになり、母も私も着いていく予定だったが、英語も何もしゃべれない私にとって、それは大変なことだった。
何より、そもそも引っ越しが苦手で、あの転校初日のひりひりとした品定めされるような視線のことを考えるだけで、私はお腹が痛くなるほどだった。
それなのに、言葉も通じないとなれば、一層怖い。私は無理を言って、両親が帰ってくるまでの間、1人だけおばあちゃんの家に引き取ってもらうことになった。
おばあちゃんの家は田舎の小さな村で、都会育ちの私は毎年帰る度に、新鮮な空気とその豊かな自然に胸を躍らせていたので、両親と離れることは悲しかったけれど、その反面少し楽しみでもあった。
流石に母と別れる時は悲しくて泣いてしまったけど、おばあちゃん達はそんな私を優しく迎え入れてくれて、ほっとしたのを覚えている。
おばあちゃんもおじいちゃんも本当に優しい。都会の人達と違ってとても暖かい気がした。こんな調子で学校生活もうまくいくといいな。私はのんきにそんなことを思っていた。
次の日、学校に行くと、先生が出迎えてくれた。
「あら、やすえちゃんね。おばあちゃんから話は聞いてるわ。大変だったでしょう。ここでは、ゆっくりと楽しんでいってね。」
先生の口調はすごく柔らかくて、私は安心した。今までとは違う気がした。村の人は、みんな優しいのかな。そう思うと、いつものドキドキもおさまってきた。
「さあ、みんな東京から転校生の子が来てくれたわよ。仲良くしてあげてね。」
ドアの向こうから、先生が私を呼ぶ声がした。
「大丈夫。大丈夫。よしっ。」
そう呟いて、私は勢いよくドアを開け、自己紹介をした。
「東京から来ました!岡崎保恵です!よろしくお願いします!!」
大丈夫。きっと、みんな受け入れてくれる。そう言い聞かせながら私はゆっくりと目を開けた。
教室には10人くらいしか生徒はいなかった。だから、視線もそんなに集まらないはずだった。けれど、私の胸はキュッと締めつけられ、いつもよりもずっと恐ろしかった。
普通だったら、みんなジロジロと私のことを見る。珍しいから。ある人は期待を抱いて、またある人は不快感を示して、けれども大体の子は私の方を見ていた。
それは確かに嫌だったけれど、少なくとも反応してくれている分、まだ良かった。なぜなら、この学校の子は1人も私の方を見ていないのだから。
そこには、興味も不審も、好きも嫌いも、一切なかった。あったのは、ただ無関心だった。
みんな、何ともないような顔をして、先生の方を見ている。何より驚いたのは、先生がもう授業を始めていることだった。
まるで、何も起こっていなかったかのように、時は進んでいた。あの時、私は確実に透明だった。
その日は、誰にも話しかけられることなく、かといって話しかけようにも目も合わせてくれないからどうすることもできず、私は空気のようにただ教室を漂うことしかできなかった。
いや、空気の方が数倍も役に立っている。空気があるからみんな生きていられるのだから。私がいなくても、誰も気がつかない。というか、もはや、あの空間に私はいなかったも同然だった。
私は泣きそうだったけど、朝のおばあちゃんの優しそうな微笑みを思い浮かべると、傷つけちゃいけないと思って、必死に平気を取り繕って家に帰り、自分の部屋に着いてから一人で思いっきり泣いた。
どうしてだろう。こんなこと初めてだった。私は何が悪いかも分からないまま、泣きじゃくることしかできなかった。
それからも、私はいないものとして扱われた。今思えば、明らかにいじめだ。けれど、当時の田舎にそんな感覚はなかった。
何日か過ごしていくと、私がどうして避けられているのか何となく分かってきた。多分、私が都会人なのがいけなかったのだ。
当時、村の人は仲間意識が強かった。だから、よそものとか裏切り者にはすごく厳しかった。そういう人達は村の仲間とは認められなくて、「絶交」された。簡単に言えば、村中の人から無視されたのだ。
それは村八分と呼ばれる罰で、今ではほとんど無くなった悪しき風習だけれど、あの時のあの村にはまだ残っていた。都会から来て、小綺麗な服を来た、得体の知れない少女は、当然仲間なんかじゃなかった。
誰にも認識してもらえない。それはとても辛くて、1週間もすると流石に限界だった。おばあちゃんに言おうとも思ったけど、心を痛めるおばあちゃんの顔を浮かべると、やっぱり言い出せなかった。
その日も、必死に明るく振る舞って、元気に家を出て、私は1人で体育の隅に体育座りをして、みんながバスケットボールをしているのを眺めていた。
私はこんなに辛いのに、みんなはすごく楽しそうで、何だか涙が溢れてきて、抑えられなくなってしまった。
授業終わりのチャイムが鳴り、みんながほったらかしにしたボールを1人で片付け、最後のボールをカゴに入れた後、私は薄暗い倉庫の中でうずくまって泣いた。
その時だった。ガチャンという音がして、真っ暗になった。涙を拭いて、急いで出ようとしたけど、無駄だった。私は、閉じ込められてしまったのだ。
一生懸命大声を出して助けを求めたけど、誰も助けは来てくれない。もう出て行ってしまったのだろうか。それとも、中にいるのに無視しているのだろうか。
そう考えると、もしかすると、一生このままなのかもしれない。このまま、おばあちゃんの家に帰れず、誰にも会えず、お母さんにもお父さんにも会えないで、死んじゃうのかな。
気付いたら、涙はもう出なくなっていた。代わりに、袖がびっしょり濡れていた。声を出すこともできなくなって、私はその場にへたり込んだ、その時だった。
うつむく私の視線の先に、一筋の光が差したのだ。顔をムクリと上げると、そこには見たことのない女の子が立っていた。
「大丈夫?やすえちゃん。」
私は自分の耳を疑った。やすえちゃん?私の名前を知っているの?いや、それよりも、話しかけてくれた?
混乱していると、その子は私に手を差し伸べてくれて、「怪我はしてないかしら。まったく、みんなひどいんだから。さあ、立って。」と言って、私を引きあげた。
頭の中には色んな疑問が次々と浮かんできた。どうしてこの場所が分かったの?なんで助けてくれたの?私を助けて大丈夫なの?あなたは誰?
たくさんの言葉が脳の中を駆け回っていたけど、私が一番に発した言葉は、「ごめんなさい」だった。
「ごめんなさい?なぜ謝るの?」
その子は無邪気にそう聞いた。
「だって、迷惑かけちゃう。」
「迷惑?そんなのどうだっていいわよ。それより、あたしごめんなさいより、言ってほしい言葉があるわ。当ててみて。」
何だろう。頭の中に嵐のように渦巻いている言葉を一つ一つ探っていく。
「あっ」
そうだ。本当なら初めに言わなくちゃならないことを、私はすっかり忘れていた。
「ごめんなさい、ありがとう。」
「あら、だから、ごめんなさいはいらないわよ。でも、正解よ。よく言えました。いいえ、こちらこそどういたしまして。」
その子は、そう言って優しく微笑んだ。その笑顔を見ると、何だかほっとして、また涙が出てきてしまった。
「あっ、ごめんなさい。言いすぎちゃったかしら。あたし、そんなつもりはなかったのよ。」
「ううん、違うの。私、嬉しくって。」
「ふうん、変わってるのね。でも、嬉しいならよかった。友達が嬉しいと、あたしも嬉しいわ。」
「友達?」
「何?友達でしょ?あたしたち。」
私はその言葉に、一層泣いてしまった。友達。今までひどい思いをした私には、そのたった2文字が何にも代えがたく嬉しかった。
「ありがとう。ありがとう。」
そう泣きじゃくる私を宥めるようにして、その子は私を体育館裏に連れ出した。
それから、私は色んなことを話した。家族のこと。おばあちゃんのこと。村の人たちのこと。全部、話してしまった。でも、不思議と怖くはなかった。
その子はうんうんと話を最後まで聞いてくれて、そして私をギュッと抱きしめてくれた。
「ありがとう。でも、あなた、どうして私なんかにそんな優しくしてくれるの。」
そう言うと、その子は笑った。
「何よ。友達だからに決まってるでしょ。」
「でも、どうして友達になんかなってくれるの?」
「そんなの理由はいらないわ。」
「でも、あの子たちはなってくれないわ。」
「何よ、あたしだけじゃ不満?」
「そういうわけじゃないけれど、私、寂しくって。おばあちゃんにも悪くって。私、何かいけないのかしら。」
「あなたは何も悪くないわ。仲良くなるやり方を知らないだけ。」
「仲良くなるやり方?」
「そう。知りたい?」
「教えてくれるの?教えてくれるなら、教えてほしいわ。」
「もちろんよ!よーし、じゃあ、明日から放課後ここに来て。いっぱい、教えてあげる!じゃあ、もう暗いから、帰るわよ。また、明日ねー!」
早口でそう言うと、その子はさっと帰ってしまった。私は、嬉しさと驚きとでしばらく動けなかった。
次の日、同じ場所に行ってみると、その子はもう来ていた。そして、その子はもったいぶって「よく来たわね。いまからやるのは特訓よ!心の準備はいいかしら!」と言っていて、私も楽しくなってきて「はい!先生!」なんてふざけて答えたりした。
「特訓」と言っても、別に大層なことはなくて、いわゆる村の遊びというものを彼女は教えてくれた。
木にはこう登るのよとか、花いちもんめは絶対一番年上の子をとるのよとか、女の子も虫くらい撮れなくちゃダメなのとか。
他の子たちにとっての普通を、その子はたくさん教えてくれた。
他にも、遊びが教え終わると、村の言葉とか、行事とか、お作法とか、村のしきたりを教えてくれた。
そのおかげで、私は2週間もすると、村のことをすっかりと理解できるくらいになっていた。すると、ある日突然、その子が言った。
「よし、もう大丈夫ね!」
「大丈夫?何が大丈夫なの?」
「何言ってるの、友達作るんでしょ?」
確かに、そんなことを言った気がする。でも、私にはその子がいるだけで、もう十分楽しかった。
「でも、私、あなたがいるだけでいいわ。だって、楽しいもの。」
「何のために特訓したと思ってるの。あのね、あたしとだけいてもダメよ。社会に出たら、たくさんの人と出会うの。嫌なことも同じだけたくさんある。そういう時、あたしがいなくても、やすえちゃんは生きていかないといけない。」
「そんな、私、ずっとあなたといるわ。それならいいでしょ?」
「ううん、ダメ。今はそう思っているけれど、いずれ、一緒にはいられなくなるわ。」
「でも、私、あなたなしじゃ......。」
「大丈夫。大丈夫よ。あなたは、もう1人でも大丈夫。私が保証するわ。」
「でも......。」
私がためらっていると、体育館の方からボールを突く音が聞こえてきた。すると、音はどんどん大きくなってきて、子どもたちの笑い声までする。
「来たわね。ほら、チャンスよ。混ざってきな。」
「やっぱり、怖いわ、私。」
「大丈夫。私を信じて。ほら、ここから見えるでしょ。あれは坂本くん。虫取りが好きなの。だから、虫の話をするといいわ。あれは田原ちゃん。一番歳上だから花いちもんめの時は最初に取りなさい。それから、あれが吉田くん。吉田くんは、木登りが得意だから———」
「あの百日紅に登ってみせる、ね。」
「分かってるじゃない。ね、大丈夫でしょ?」
彼女の言う通りだ。確かに、今はみんなの話していることも、どうやって仲良くしたらいいのかも分かる。これが仲間という感覚なのかな。
「何もたもたしてるの!さあ、早く行きな!」
そう言って、彼女は背中を押してくれた。私は勇気をもらって、走り出した。
「じゃあね!頑張んなよ、やすえちゃん!」
「うん、ありがとう!!」
そして、私は思いっきり体育館の扉を開けた。
大きな音に驚いて、みんながこっちを見る。私にはそれが嬉しかった。見てくれたのだ。前とは違う。大丈夫、私は、もう大丈夫。
「みんな!私も遊んでいいけ?」
大きな声でそう言うと、みんな目を丸くしていた。方言、間違えちゃったかな。けれど、みんなの反応は違かった。
「おめえ、それどこでならった?」
「うめえや、都会っこのくせに。やるじゃんか。」
あれだけ私に興味を持っていなかったみんなが一斉に話しかけてくる。質問が多すぎて、答え切れないくらいだ。
やった、やったよ。私、みんなも友達になれそうだよ。嬉しくって、嬉しくって、早くありがとうって言いたくて、私は窓の方を見た。
でも、そこにあの子はいなかった。私は、帰っちゃったのかなと思って探そうと思ったが、みんなに誘われたのもあって、明日会えばいいやと思い直して、バスケットに参加した。
それから、あの子は一度も体育館裏に来なかった。しかも、みんなに聞いても、誰一人あの子のことを知らなかった。思えば、私もあの子のことを何も知らない。名前すら分からないのだ。
いくら探しても、あの子には会えなかった。私は仕方なく、全てのことをおばあちゃんに話した。無視されたこと、閉じ込められたこと、助けてくれたこと、そしてあの子が救ってくれたこと。
おばあちゃんは、悲しそうな顔をしてギュッと抱きしめてくれたけど、「頑張ったね」と笑ってくれて、私はまたほっとして泣いてしまった。
「おばあちゃん、あの子にはまた会えるかな?」
落ち着いてから、そう聞くと、おばあちゃんは少し考えてから、教えてくれた。
「それは、ツナギビトかもねえ。」
「ツナギビト?」
「そう。ツナギビト。神様だよ。こういう田舎はね、村八分っていうのがあるんだ。ひどいもんだけど、気に入らないと、みんなで無視するのさ。それは大体悪いことをした人が受ける罰なんだけどね、たまに悪いことをしていないのに同じ扱いを受ける人がいるんだ。そういう善良な人を、救ってくれるのがツナギビトなんだよ。」
「どうやって助けてくれるの?」
「ツナギビトはね、人と人とを繋いでくれるのさ。村の人と仲間外れにされた人との間にある壁を取り除いて、その間にある関係を結んでくれるんだ。やすえもそうだったろう?」
「うん、そうだった。じゃあ、おばあちゃん、ツナギビトにはどうやったら会えるの?」
「ツナギビトにかい?そうだねえ、1人なら会えるかもねえ。」
「そしたら、私は?会えるよね?」
「そうだねえ、1人になったら、会えるかもしれないねえ。でも、やすえはもう1人じゃないだろう?ツナギビトは誰かを助けたら、また他の誰かを助けに行くのさ。だから、やすえが会えるのは随分と先だろうね。」
そんな。まだお礼も言っていないのに、もう会えないだなんて。その時、私はあの言葉を思い出した。
「いずれ、一緒にはいられなくなるわ」
あれは、本当だったのだ。じゃあ、もう、本当に会えないのかな。私の目には、また涙が滲んできて、よく前が見えなかった。
「ああ、でも、もう1つ会える方法があったかもしれないわ。」
もう1つ方法がある?そしたら、また会える?私はおばあちゃんに詰め寄った。
「おばあちゃん、本当?私、あの子にまた会えるの?」
「ええ、会えるわ。きっと、会える。」
「本当!いつ会える?すぐ会える?」
「すぐは難しいわね。だって、会えるのは亡くなる時だからねえ。それに、条件があるわ。」
「条件?どうすればいいの?」
「言い伝えでは、ツナギビトに繋がれた人は、次のツナギビトに選ばれるんだよ。全員じゃないけれど。条件は、そうだねえ、ええと、どこだったかしら、ああ、あったあった。ええと、これだわ。」
おばあちゃんが開いたページには、次のようにあった。
「ツナギビト。イノチヲツナグモノ。故ニ、イノチヲ大切ニ思エル、ヤサシイ人ヲツナギ人ニ任ズル。須ク人間ハ、貧シキモノニ粟与エ、迷イシモノニ道ヲ示シ、虐ゲラレシモノニ手ヲサシノベルベシ。サスレバ、再ビツナギビト現ル。」
「おばあちゃん、これどういう意味?」
「ふふっ、やすえには少し難しかったかね。簡単にいうと、貧しい人・迷っている人・いじめられている人を助けなさいってことよ。困っている人に思いやりを持って助けられる人だけが、ツナギビトになれると書いてあるわ。」
文章は難しくてよく分からなかったけれど、おばあちゃんの言うことは、多分本当なのだと子供ながらに、私は感じた。だって、「ツナギビト」のページに書いてある挿絵は、あの子にそっくりだったから。
「おばあちゃん、ありがとう。私、頑張るわ。」
「やすえなら、大丈夫よ。優しい子だもの。きっと、会えるわ。」
その日から、今日まで私はこの教えを忘れたことはない。自分と同じ苦しみを持った子達を助けるために、私はカウンセラーになった。
きっとあの子は今もどこかで、あの時、私を助けてくれたように、誰かを助けている。
今は都市化が進んで、村八分自体はもうないけれど、その分、いじめという形になってあらゆるところに小さな村八分が現れている。悲しいけれど、ツナギビトの役割が失われることはこれからもないかもしれない。
そんな疲れた世の中だけれど、せめて私だけでも困ってる人がいたら、その人に手を差し伸べ続けよう。世の中の人全員が無理なら、せめて手の届く限り助け続けよう。
胸を張って、またあの子に会えるように。そして、今度こそ名前を聞いて、「ありがとう」と言えるように。
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