目が光る(10)
「まあいいわ、話してあげる。でもね、私にも段取りがあるのよ。実際に見てもらいながら説明するつもりだったんだから。だから、ここまで連れてきたのに。」
天宮は手持ち無沙汰の右手を揺らし、人差し指で机をトントンと叩いている。どうやら、自分の思うようにいかないことはとことん気に入らないようである。
そうして、天宮はたもとから扇子を取り出し、顔をあおぎながら、不満足そうに答えた。
「そもそも、病気を治すには根本から叩くしかないのよ。さっき、慣用句病は人間の性質が現れたものだって言ったでしょ?ってことは、慣用句病の根本はその性質なわけ。だから、ここではそれを治すの。もっと言えば、その強すぎる性格の一面を抑えられるようにする。それが、治療よ。」
彼は特別驚かなかった。ここまでは大体予想できたことである。このような超常的な、症状というより現象とでもいうべき病が、投薬などの極めて現実的な方法で治療されるはずはなかった。であるならば、その治療はもっと精神的なものになるしかないのだった。
彼はより根本的な疑問を天宮にぶつけることにした。
「その治療は具体的にどのようになされるのでしょうか?」
天宮の机を叩く指が止まった。扇は変わらず艶やかな黒髪をそよがせているが、眉にはさっきよりも深くシワが刻まれていた。天宮はゆっくりと髪をかきあげた後、大きくため息をついた。そして、観念したかのように両手で顔を二回はたき、開き直ったように答えた。
「あーもう、仕方ないわね。いいわよ、もう。どんどん質問しなさい!望むところよ!何でも答えてやるわ。治療法はね、とにかく自分を見つめ直してもらうのよ。一番大事なのは、歪になった心の形を整えること。だから、まずはそれを自覚してもらう。そして、今度はそれを抑制する。それを続けていけば、最終的に症状が出てこなくなるってわけ。具体的な様子は後で見てちょうだい。他に質問は?」
天宮はすっかり吹っ切れた様子で、寧ろさっきよりいきいきしながら答えてくれた。彼はようやく、あの医者を訪ねた時から抱き続けてきた、治療に関する疑問を解消することができた。制約から解放された彼もまた息を吹き返したようにいきいきとし出し、続けて質問をした。
「だとすると、ここにいる人たちが一見普通なのはその抑制段階にあるからということでしょうか?」
天宮は間髪入れず答えた。
「そうよ。とりあえず、みんな案外抑えられるようになってるわ。ただ、中にはあんまり抑えられない子もいるの。この中にも結構いるわ。その子たちの症状が出てないのは、表に出るのが限られてるからよ。」
そういうことだったのか。彼が納得していると、天宮がぼやくように呟いた。
「あんたも本当はそっちなんだけどねぇ......。」
「どういうことですか?」
彼はもう質問に遠慮がなかった。天宮ももう仕方ないと受け入れていた。
「"目を光らせる"なんて普通、限定的に使われるもんなのよ。だって、不正とか間違いがないように監視する時にしか使わないんだから。だから、普通はそんなずっと光ったりしないものなの。」
彼は驚いた。今も光っているのか。明るいからさっぱり分からなかった。もしかしたら、あの少女もそれが分かってあんな風に言って去ったのかもしれなかった。試しに目を少しつぶってみると、確かにまぶしかった。
眩しさにびくっと身体を震わす彼を見て、天宮は少し笑い、またすぐ真面目な顔に戻って話を続けた。
「でもね、あんたの場合は、少しおかしいの。ずっとついてるじゃない?なんでだと思う?」
自分の目が光っていることにすら気のつかない彼にはいささか難しすぎる質問だった。
「分かんないでしょ?ま、これからそれをつかめるように治療するんだけど、あんたの場合は特殊だから先に言っとくわ。端的に言うと、注意深すぎるのよ。それで、慣用句がもとの意味を超えて広く援用されて、あんたが注意を向けたり、何かをうたぐって見せたり、話のアラを探ったりする時はずっと症状が出るってわけ。」
そこまで話されて彼はようやく自らが常に批判的な視点を持って物事を眺めているのだということに気がついた。彼は外に向けては極めて分析的な視点を持っているにも関わらず、自分のこととなるとてんで無知なのであった。
仕事では俯瞰的に自らの立場を捉えられるものの、それはあくまで役割的な外面の性質分析にとどまり、とも私事になると自分がどう見られているのかということにすらも、一切考えが及ばないのだった。
だから、彼はこの時はじめて、他人に自分がどう見えていて、自分は実際にどういう人間なのかということを考えさせられたのだった。
天宮は、言葉を失っている彼に構うことなく、追い討ちをかけるように告げた。
「だから、あんたは骨が折れんのよ。治すなら相当頑張らないとよ。時間はかかると思ってなさい。」
そうか。だから、天宮は質問することにあれだけ苛立っていたのか。彼は自らの症状とそれまでの天宮の態度とを照らし合わせ、ようやく気がついた。
天宮がなかなか話さなかったのは勿論実物を見せようという意図も本当にあったのだろうが、恐らくカウンセリングも兼ねていたのだろう。
あれだけしつこく質問を嫌って、話を聞くようにとがめたのも、少しでも症状を抑えようとしたためだったのだ。それが分かり、彼は天宮に申し訳が立たないような気がした。
彼の頭に、あの医者とのやりとりがふっと蘇る。あの時も彼は自覚もないまま手のひらで踊らされたのだった。その失敗から何も学んでいなかったということが浮き彫りになった彼は、あの時以上の恥ずかしさを覚えた。
「すみません。今までご迷惑を......」
彼の口から絞られるように出た謝罪は、ひどくかすれ、語尾は霧散していてよく聞き取れなかった。
天宮は異様に落ち込んでいる彼を見て、少し驚いた。彼女には彼がどうしてそんなに落ち込んでいるのか分からず、とりあえずどうにかして慰めようとした。
「ま、まあ、そんなこと言ったけどさ、あんたは随分と運がいい方よ?そりゃ、治りにくくて時間はかかっちゃうけどさ、でも、所詮目が光るだけじゃない。中には普通の生活もままならない人もいるんだし、ね!だから、そんな落ち込むことないわよ。」
迷惑をかけている相手にさらに気を遣わせてしまったことで、彼はさらに気が重くなったが、そのままでいるのは天宮にも悪いと思い、どうにか笑顔を取り繕うとした。それでも表情筋はうまく動かず、ぎこちなくなってしまった。
その時、突然、入り口付近から、ガシャンと何かが割れる音がした。ふと音がした方向に顔を向けると、中学生くらいの少年がお皿を落として割ってしまったようだった。
あまりの音で、少年を見たのは彼だけじゃなかった。この食堂中のありとあらゆる眼差しが一気に少年に注がれた。食堂はこの一瞬、凍りついたかのように静まり返った。その時だった。
「ボウッ」
少年の顔が急に燃え始めたのである。あれはもしや。彼は天宮を見た。天宮は、額に手を当て、文字通り頭を抱えている。
「先生、これってもしかして」
天宮は天を仰ぎながら答えた。
「顔から火が出たのよ」
それから食堂は大騒ぎだった。
「やばいやばい!!ちょ、水水!早く水ちょうだい!」
「バケツどこよ!ないんだけど!あ、あった!誰よ、鍋のとこにしまったの!分かるわけないじゃない!」
「ちょ、もうそんなこといいから早く水持ってきて!!」
「どうしよ、どうしよ。やばいよ。え、ちょっと、待って、やばいかも。あ、これやばいわ!熱い熱い熱い!!」
「やばい、こっちも尻に火がついた!!水こっちにもちょうだい!」
パニックである。彼はどうしていいか分からず、じっと座ることしかできなかった。
すると、天宮がすくっと立ち上がった。
「みんな、落ち着きなさい!望!あんたはそのバケツで上里の消火をして!それから、双葉!あんたは次郎のケツに水ぶっかけなさい!」
「でも、バケツないよー」
「双葉!しのごの言うな!バケツないなら鍋でもなんでもいいでしょ。とりあえず早く鎮火!みんなも手伝うのよ!」
天宮のこの一言でパニックは収まったようだった。さすが、先生とでも言うところだろう。彼は天宮を見上げ、称賛の眼差しを送った。
すると、彼女は困ったようにはにかんで、こう言った。
「ね?あんたは運がいい方でしょ?」
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