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【読書感想】ミュケーナイ世界 (ジョン・チャドウィック著)

線文字Bをヴェントリスと共に解読した言語学者ジョン・チャドウィックの著書「ミュケーナイ世界」を読み終えました。本書は、おそらく既に絶版されてしまっていますが、豊富な線文字B粘土板史料を元に、ミュケーナイ文明の文化や社会について、推測も交えながら、多くを教えてくれます。

ミュケーナイ社会では女性も要職に就けた?

特に興味深かった点としては、ミュケーナイ社会では女性でも行政の要職に就けた可能性が高いことです。ご存知の通り、古代ギリシア社会は男性中心の社会構造をしており、宗教関係を除けば、女性が政治の要職に就くことはほぼあり得ませんでした。

しかし、スパギアーネスの土地文書では、二区画の土地所有者かつ「鍵を担う者」という役職者として、女性の名前(カルパティア)が挙げられています。

確かに、「鍵を担う者」という役職は、聖域の鍵の管理人、すなわち宗教関係の役職だったかもしれません。事実、古典時代にはこの語は「女祭司」という意味になります。とはいえ、ピュロスから出土した粘土板には、「首長補佐役」という役職の別名として「鍵を担う者」が併記されており、宗教関係のみならず、政治的要職でもあった可能性を示唆しています。チャドウィック自身も、この事実には「大変意外」と驚きを隠せないでいます。

人身御供を記録した粘土板

また、神々の奉納物を記録した粘土板には、人身御供の証拠とも考えられる文書が発掘されています。ピュロスから出土したこの粘土板には、「連行する」という動詞の後、「ポトニア(のために)、黄金の器1個、女1人」と記録されています。(ポトニアというのは、ミュケーナイ時代に信仰された大地の女神と考えられています)他の項目では、男神の名も挙げられていますが、そこでは女性ではなく「男」が神のために連行されたと記載されていたようです。

素直に解釈するなら、神々に対して、女神なら女性を、男神なら男性を生贄に捧げたということでしょう。チャドウィックは、ギリシャ神話に見られる人身御供のエピソードも踏まえ、ミュケーナイ文明の人身御供の習慣を確信しています。テーバイでも同様の粘土板が発掘されたこと、墳墓の外側で人骨が発見されたことも、この結論を補強しています。

個人的には、ミュケーナイ文明に人身御供の習慣はあったと思います。近年、ゼウスの神域たるリュカイオン山の山頂で、紀元前11世紀頃に亡くなったとされる10代の若者の人骨が発掘されたことも、上記の結論を動かしがたいものにしています。(尚、人骨発見者のカラパナギオツ考古学局局長も、この人骨を人身御供の証拠と解釈しています)

ホメロスとの相違点

本書の終盤には、ホメロスの「イリアス」と実際のミュケーナイ社会との相違点もまとめされています。毎週ホメーロス研究会で「イリアス」の原文を音読・解釈・議論している身からすると、非常に興味深かったです。

前提として、文字の未発達な時代に、数百年間も物語の伝承が口頭だけでできたのかどうかという問いに対しては、チャドウィックは"Yes"と結論を出しています。ミルマン・パリという学者の成果や、「ローランの歌」の事例を引き合いに出しながら、口承の強靭さを明らかにしています。ただ、もちろん口承の途中で内容がアップデートされていくことは事実なので、ホメロスの叙事詩が全く正確にミュケーナイ時代を描き出しているかというと、そんなことはありません。

例えば、ホメロスは叙事詩に鉄器を持ち込んでいますが、当時のミュケーナイ文明は鉄を製造・加工する技術は殆どありませんでした。ミュケーナイ文明が土葬であったのに対し、ホメロスは火葬というのも顕著な相違点でしょう。本書には書かれていなかった気もしますが、ホメロスの英雄たちが得意とする2本の投げ槍を投擲する戦法も、鉄器時代のものであり、ミュケーナイ時代のもの(1本の長い槍で攻撃)とは異なっています。

また、トロイア勢の人名(アレクサンドロスやヘクトル)も、基本的にはミュケーナイ側の名前であり、実際のトロイアの名前ではなさそうです。ヘクトル等有名な名前はもちろんのこと、トロイアの名祖トロスでさえミュケーナイの粘土板に登場しており、青銅器時代に存在したトロイア側の人名を正確に伝承している可能性は皆無となりました。

本書は、出版時期が1983年とかなり古いので、今では上記とは異なった結論を出す研究者もいるかもしれません。ホメーロス研究会に参画している身としては、今後もミュケーナイ文明の学説にはアンテナを高くし、ホメロスの世界の実態についてウォッチしていきたいと思います。

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