言葉について
作家志望の僕にとって、言葉は自分の住む家みたいなものだ。実際、この感覚は、僕が哲学を志し、哲学者ハイデガーの「言葉は存在の家である」という言葉に出会うよりもはるか以前から、漠然と心の中に持っている感覚である。
言葉の中に人は住む。美し夕焼けを見た瞬間、そこに感じて、そこに見ることがあの純粋な感覚について、いろいろと言葉をひねって表現する方法を考える時の、心の中の内声みたいなものの感覚が無ければ、その人は死んでいるも同然だ。美しさは、美しいという言葉の中にではなくて、美しいと感じることの中に宿っている。ミロのヴィーナスの内側に美しさのイデアのようなものがあるのではない。本当に、この今生きている自分がそう感じているというその事実の中に、美しさの感覚がある。
ハイデガーは、このような感情/感性の働きを「情態性Befindlichkeit」という言葉で持って表現する。そしてそれが、今ここに存在している人間=現存在Daseinの「今ここda」を成立させる要素の一つなのだと言う。自身がどのような状態であるかを見つける(Sich befinden)する時、そこで見つけられたものとしての感情/感性は、私の「今ここ」に、はっきりとした土台を与えるのだ。
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