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日本から仏教?黄金期を作り上げた尚真王①【教養版】

みなさん、こんにちは! 伊江朝恭です。


はじめに

最近、とても多くの方からフォローをいただき、非常に嬉しく思います。

今後も一人でも多くの方に沖縄の魅力的な歴史をお届けするために記事を書いていきますので、よろしくお願いいたします!


またとらねこさんのnoteでも魅力的なクリエイターとしてご紹介いただきました!非常に嬉しいです!ありがとうございました!


それでは早速今回のテーマに移っていきたいと思います。ですがその前に今回の内容をより詳しく理解するためにも前回の記事を事前にご覧になることをお勧めします!


主人公・尚真

今回のテーマは琉球王国の黄金期を作り上げた尚真という人物です。

漫画「琉球のユウナ」でも尚真は美青年な名君として描かれている人物です。

尚真は第二尚氏王統の3代国王で在位年間はなんと50年にも及びます。

母オギヤカの知恵によりわずか13歳で即位することができ、数多くの功績を残しました。


今回は日本史の図録にも記載されている尚真が具体的にどのような功績を収めてきたのかをご紹介していきます。


前回までのおさらい(尚真の即位と排斥)

父は第二尚氏王統の始祖である尚円であり、尚真はその後を継ぐ国王候補でした。しかし父が逝去した当時尚真は12歳であり、王位を継ぐには若すぎると判断されます。

その結果2代国王として尚円の弟である尚宣威が王位につきます。

しかしそれを面白くないと感じたのは尚真の母オギヤカでした。オギヤカは尚宣威が自分の息子に王位を継承するのではないかと懸念していたのです。

オギヤカは画策し尚宣威の即位式で、「尚真を王位につけよ」といった信託を神官に行わせ、尚宣威をわずか半年で王座から引きずり下ろしました。

そして1477年、13歳の若さで自身の息子尚真を3代国王として即位させることに成功しました。


また尚真とオギヤカは尚宣威の血脈を完全に絶つために自身と王妃(尚宣威の王女)との間に生まれた長男ではなく夫人との間に生まれた5男に王位を継承しました。

尚真関係図

青:尚宣威血統  赤:尚円血統


ここまでが前回の大まかなあらすじです。上記の前回記事ではより詳しくご説明していますので、まだの方はぜひご覧ください。


すごすぎる!尚真の功績 碑文には?

尚真の功績については名君として在位年間のうちに多くの碑が建てられました。その中でも有名なものとして「百浦添欄干之銘(ももうらそえらんかんのめい)」があります。

百浦添欄干之銘:尚真の在位年間中の1509年に首里城内の正殿前欄干の左脇に建てられた碑銘。尚真の行いが11カ条で書かれている。欄干とは橋の両端にある人や車が落ちないようにするための柵のこと。百浦添(ももうらそえ、またはムンダスィ)とは首里城正殿のことで、百浦(各村々)を支配するという意味に由来する。


欄干之銘に書かれた11カ条を現代文に置き換えると以下の通りになります。

仏教を奨励し、多くの寺院を建てて仏教並びに仏教芸術を盛んにした

②民を愛し、租税を軽くしたために君臣上下が和睦した

八重山のアカハチ・ホンガワラの戦いを平定し、宮古・八重山の支配を確立した

④華麗な衣服、金銀の器具を用いた。刀剣や弓矢を集めて国の防衛に努めた

はちまきと簪(かんざし)の色を決めて職制・位階制を定めた

⑥首里城一帯の環境を整備して緑豊かな王都を作り上げた

⑦王宮の内園に山水を築いて、宴を行う場とした

⑧芸術を奨励して美酒を備え、大切な客をもてなす品格を高めた

中国への進貢を3年1貢から1年1貢に改め、交易を盛んにした

⑩中国の優れた文化を積極的に取り入れた

⑪中国の宮室制度に習って青石を削り、首里城正殿に石の欄干をめぐらせた

※太文字の部分についてnoteでは取り上げます


また、この他の碑文では「殉死(王の死後に部下も自殺すること)を禁じた」や「王府から豊見城(とみぐすく)までの道路や真玉橋(まだんばし)を建造した」など書かれたものがあります。


それでは百浦添欄干之銘に書かれているものをご紹介していきます!



仏教を奨励し、多くの寺院を建てて仏教並びに仏教芸術を盛んにした

まず琉球に仏教が伝わったのは13世紀半ばとされています。禅鑑という僧が浦添にて極楽寺を開きました。そして第一尚氏王統の6代国王尚泰久の時代に京都の南禅寺から芥隠(かいいん)が来島し、臨済宗を広めました。


そして尚真もその芥隠の教えを受けて、3年間をかけて円覚寺を創建しました。この円覚寺は鎌倉の円覚寺を模したもので、寺域はなんと1080坪もありました!

これにより首里城の北面に「円覚寺」、西面に「天界寺」と首里城は王城としてより一層威厳が増しました。

円覚寺

円覚寺


また1502年には円覚寺の西側に円鑑池(えんかんち)を作り、池中に建てた経堂に朝鮮からの「大蔵経」を収め、観蓮橋(天女橋)を架けました。

しかしこの経堂と大蔵経は1609年の島津氏の侵略によって破壊、散逸してしまいます。

その後、建て直した経堂には弁財天女像が安置されたため、この経堂は「弁財天堂」と呼ばれるようになりました。

また沖縄戦時のアメリカ軍の攻撃によって、弁財天堂は破壊されてしまいました。そのため現在見ることができるのは1968年に復元したものです。

弁財天堂

円鑑池・弁財天堂


おわりに

いかかがでしたか?

今回は尚真が行なったことの概要と仏教についてご説明させていただきました。次回以降では本格的に尚真の功績についてお話させていただきます。


最後までご覧いただき、ありがとうございました!

次回もお楽しみに!!




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