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書くということ

※これは2019年6月26日にMediumに投稿されたものです。

こんな私でも、脚本を書いている。過去には何度もそれを上演させていただいている。

とても畏れ多いことだ。

演劇を始めたころはそんなこと、考えすらしていなかった。自分が上演しているものが「面白い」と思えれば良かった。

自分の感性を信じていた。

その考え方が変わったのは、高校2年生のときの地区大会。

取材した地元の戦争記憶をもとに、部員と少しだけ自分と、顧問の先生で書いた脚本。それを演出した。

自分たちが何を創ろうとしているのか、頭では分かっていた。それが簡単に触れてはならないことも。

それで、上演を観た年配の方が「ありがとう」と言った。その言葉の意味が分からなかった。

自分が脚本を書くとき、そこには隠しきれない自分の中の透明な痣が紛れていて。

それに触れた瞬間、怖くなる。

同時に、そんなものを表現しても面白くないと思ってしまう。

自分の感性は、信用できない。

それでもって書き出した言葉の羅列は論文みたいで、ちょっと安心する。
けど、ふとした瞬間、意識せずに零れていた血の跡を見て、これを「脚本」と呼ぼうと思う。

そういうことの繰り返し。

今日も脚本を書いている。

作家を大々的に名乗ることはまだ無理だ。

他に良い説明方法が分からないから、控え目に脚本家と名乗らせてもらう

今まで送り出してきた作品の数々は、自分の子供のようであり、討伐すべきドッペルゲンガーであり、初めましての赤の他人。

その中の誰か一人だけでいい。

百年後のどこかの町、少年の腕の中で、静かに眠っていて欲しい。

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