発達障害者は他者に興味が無いのか?あるのか?どっちなの問題

 まず最初におことわりを。タイトルにある「他者に興味がない」というのは、ADHDというよりもASDの特徴なので、「発達障害者は他者に興味が無い」と一括りにするのはおかしいというご意見があるかもしれない。事実そうではあるのだが、診断基準である「DSM-5」ではADHDとASDの併存が認められるように数年前に変更した点や、ADHDと診断された43%の人にASDの特性が見られるという結果もあるという点から、一括りにさせて頂いた。
 また最後まで読んでいただくとわかるが、私の意見・結論としては「発達障害者は他人に興味が無い」というものだが、決してそれを非難しているわけではないことを予め伝えておく。この国では「他人に興味が無い」ということはダメなこととして扱われてしまうが、私に言わせれば「興味が無いものは無いのだからしょうがないだろう」と言いたい。

 さて本題に入るが、発達障害者は一般的に自己完結的で誰とも関わらないとか、空気が読めないといった特徴から、他者に関心がないという結論が導かれている。だが、他者に興味が無いはずであるのに、当事者の多くは人間関係が上手く行かず、孤独であることに耐えられず寂しさを訴える人が多いらしい(リンクを参照)。事実、自分自身も一番の暗黒期で対人恐怖が極限状態まであった大学入学時は、身長180㎝越えの大男ながら、初めての一人暮らしと友達が出来ない寂しさで毎日のように泣きながら母親に電話していた(苦笑)。

 本来であるならば人間関係を頑張り、それを豊かにすることで寂しさを克服するのが王道であるはずだが、それまでの人生でどう頑張っても人間関係が上手く行かなかったので、これ以上頑張る気力が当時の自分にはもう残されていなかった。その当時は、「人と関わらずに寂しさや苦しみだけをどこかに追いやる都合の良い方法は無いのか・・・・?」といったことばかり考えていたような気がする。
 そんな中ある文章に出会い大きな気づきを得た。明治大学教授の斎藤孝さんによって書かれた「孤独のチカラ」という本の中のあとがきだ。そのあとがきは僧侶の小池龍之介さんが寄せていた。その本は既に数年前に手放してしまったので、今は手元になく、内容はうろ覚えだが小池さんが若い頃に付き合っていた彼女が手料理を作ってくれた時の自分の感じ方についてのエピソードが書かれていた。確か自分の調子が良いときは料理を作ってくれたこと自体に感謝の気持ちが湧くのに、自分の調子が悪いときは相手の手料理の質の悪さに目が向いて腹が立つといった内容だった気がする。正確な内容ではなかった気がするが、いずれにせよ小池龍之介さんが主張したかったのは同じ現象に出会っても、自分の心のフィルターによって捉え方が大きく変わるということだった。
 これを読んで確かにそうだなと強く納得したし、それと同時に今の苦しみ・孤独感も人間関係を上手く行かせるという外部の状況をコントロールすることで乗り越えるという方法ではなく自分の心の捉え方を変えさえすれば、乗り越えられてしまうのでは?と気づいた。今でも忘れないがこの事実に気づいたとき、心の奥底から力が漲ってくるのを感じた。だって、思い通りに動かない他人ではなく、コントロール可能な自分の心を何とかすれば良いという具体的な方針が見つかったのだから。

 では、どうすれば自分の心の捉え方を変えることが出来るのか。色々と調べた結果、自己嫌悪を取り除き自分を愛するという結論に至った。なぜなら、他人の言動や行動で傷つくのは、実は自分で自分のことを責めているからだ。加えて他人が嫌いというのならその人から離れれば済むことだが、自分が嫌いというのは幽体離脱でもしない限り自分から逃げることは出来ない。また、自己嫌悪は自分で自分を理解せず突き放す行為にもなるので、他の誰かに自分を分かってほしいとか、かまってほしいといった寂しさに繋がるとも言えるだろう。
 それ以来大嫌いな自分を必死で愛するようになった。私も例外ではなかったが、発達障害者は自己嫌悪が非常に強い人が多いと思う。理由としては周りの人が簡単に出来ることが出来ないことが多く、実際に人から馬鹿にされたり、挫折感を味わうことが多いからだと思う。だが、これも「○○であるべき」という観念が心を支配しているために、それが出来ない自分を責めるのであって、この観念さえ手放してしまえば自己嫌悪は止んでしまう。観念の手放し方は様々な手法があるが、自分は「M2テクニック」というものを使用した。また、アファメーションなどで自分に肯定的な言葉をかけるといったことを行った。

 そうやって取り組んでいく内に、別に人間関係に物凄く恵まれるようになったわけではないのに、予想通り「寂しさ」と「対人恐怖」、そして「うつ」なんてものは一年も経たぬうちにどこかに行ってしまった。
 もしかしたら私だけかもしれないが、結局の所自分の感情さえ穏やかで満たされれば外部や他人はどうでもいいわけだったのだ。それまでの自分は他人に対して興味を持ち気を遣っている人間だと思っていたのだが、何のことはない、ただ単に他人の言動や行動によって自分の感情が揺さぶられてしまうために一生懸命他人をコントロールしていただけで、興味を持つふりをしていただけだったのだ。他にも冒頭で述べたように、日本人には「他人に興味を持つこと」を絶対的な善とする風潮があるので、怒られないように興味を持つふりをしていただけとも言えるだろう。まぁだからこそ人間関係が上手く行かなかったともいえる(苦笑)。

 話は横道にそれたが、結局のところ発達障害者は他者に興味が有るのか無いのかと問われれば、これらの結果から無いと私は思っている。興味が無いということがはっきりすると、これにより発達障害者が持ついくつかの特徴を説明することが出来る。次回以降それらについてミニシリーズで説明しようと思う。
 最後に、現在の私はさらに進化を果たし自分さえ良ければの心理を脱却して、本当の意味で相手への関心を育むことが徐々に出来るようになってきている。どうすればそうなれるかは、私の過去記事である「発達障害克服してみた」シリーズをご覧いただければと思う。

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