生前に評価されるには
7月になった。
スキルシェアサイトで受注した脚本の執筆に取りかかっている。一部センシティブな内容を含む社会派の作品なので、注意深く進めている。
考えてみれば、僕もだいぶ長い年月、執筆を重ねてきた。実際に上演されたのを確認したもの、どうなったかは分からないが、とにかく書いて納品したものを含めると、相当な数になる。それなのに、ちっとも有名にはならない。これは、僕の力不足なのは間違いないが、それでも大抵の作品は、好意的に受け入れられている。名前が知られないのは、多くの人に知ってもらっていないからであり、その理由は、端的に言って需要がないからだろう。
僕の脚本(や小説)は、以前のnoteでも紹介したが、pixivやBOOTH、観劇三昧といったサイトで、有料または無料で読むことができる。昨年12月に上演された「シン・赤ずきん〜童話は童話〜」の脚本は、観劇三昧の店頭でもお求めになれる。しかし、なかなか「売れた」という報に接しない。無名だから、最初からスルーされてしまうのだろう。
どうにかして世間に名前を知られたいが、その有力な方法は、「賞」をとることだろう。どんなにマイナーな賞でも、とっているのといないのとでは、知名度という点で幾ばくかの違いが出てくる。超メジャーな賞でなくても、自分の紹介文に「○○賞受賞」と書いているのとないのとではインパクトが違う。その一言で、興味がない人でも、一瞬でも目を止めてくれる。世の中、これだけ作家・自称作家が溢れているのだ。アイキャッチがわりに「○○賞受賞」があってくれた方が、ずっと有利に働く。
では、なぜ僕は何も賞を持っていないのか。そもそも、僕は何かの「賞」を目標にしてものを書いたことが殆どない。全くないわけではないのだが、その数少ない場面では、箸にも棒にも掛からなかった。「佳作」にすら選出されたことがない。それに、普段から「賞」に目を光らせているわけではないので、何の賞が、いつ、どこで募集されているのか、よく分かっていない。僕に分かっているのは、目の前の「締切り」である。僕の本を上演してくれる人達がいて、その人達に作品を届ける。それが、目下の僕の最大の目標であり、モチベーションだ。
すると、おかしなことになる。僕は需要がないので、有名ではない。みんなに求められていないので、名前が知られていない、有象無象の中の1人である。それなのに、僕の脚本を求める人はいる。
これをどう考えたらよいのか。有名な団体や人に求められていないから、メジャーにはなれず、有象無象の中の1人ということなのだろうか。かつて僕の脚本に、芸能人の括りに入る人が出てくれたことがあった。しかし、だからといって、僕の脚本が注目されることはなかった。劇場で脚本を売ったら売れたらしいが、芸能界から執筆のオファーがくることはなかった。
僕の実力は、悔しいけれど、そんなものだったのだろう。
ただ、投げ出す気はない。以前に比べれば、今の作品の方がずっといいに決まっている。何事も積み重ねだ。天才ではない以上、あるレベル以上のクオリティのものを、どんどん量産していけるはずなどない。宮沢賢治もカフカも、生前発表された作品は限られる。その死後に、発見されたり第3者に託されたりした原稿が出版され、評価され、時代や国を超えて読まれるようになった。僕の作品も、そういう可能性はないとはいえない。現代はデータも残っているので、かつてのように、紙に書かれた原稿が散逸してしまうこともない。
とはいえ、この先は、もう少し「賞」を意識してみようかなとも思う。どこかに引っ掛かれば、知名度アップにもなるし、自分にもっと自信が持てる。賞を目指すなど恥ずかしくて大っぴらにはいえないが、賞に無関心であることを、何の賞も取れないことの言い訳にしていると思われるのも癪である。誰かに、何かに選ばれるという目標を胸に秘めて、書いていきたいと思う。これだけ書いてきたのに、人知れず死んでいき、死後も作品が見向きもされないというのは耐えられない。
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