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【エッセイ】魚を求めて(断片) 季節

8月最後の週末。地元にて。磯遊び、写真、寿司、ゴミ拾い。その日は祖父の命日だった。

祖父とは磯遊びをしたことはないと記憶している。彼と堤防や船での釣りにはたくさん行ったけれど、磯遊びへ連れて行ってくれたのはむしろ父であった。そうではあるが、磯での祖父との思い出が一つだけある。私が3歳か、4歳か、それより前の記憶を訊かれると、はて、と考え込んでしまう、そんな歳だった。その日は千葉の館山に来ていた。当時はまだ館山道もなく、市川の自宅から行くと朝出ても着いた頃には太陽が空の頂上に登る手前で、子どもの私には帰る時間がもう差し迫っているように思われて落ち着かなくなるような、遠い場所だった。しかし、その日は泊まりがけであったか、まだ帰らぬよう自分の遊びに切れ目を作らぬようあくせくした覚えはない。その上、空は曇っていた。

私は潮だまりに立っていた。手を水に伸ばす。つかみあげたのはバフンウニだった。図鑑でしか見たことのない、丸い、動かぬ生き物。私は静かにそれを見つめていた。祖父や父は少し離れたところにいた。

そのバフンウニを持ったままか、もう水に戻していたか、私は家族の元へ戻った。すると何かが飛んできたかと思うと、祖父が拳を振り下げた。そうして宙で弧を描いた拳がゆっくりと開かれる。緑色の粒が入っていた。カナブンだった。祖父はそれを私に見せる。虫の好きな私。けれども、その時ばかりはカナブンの輝く緑ではなく、宙を音なく切り裂き、生きるものを難なく拳に納めた祖父の姿を何度も頭の中で思い起こしていた。

この記憶が本当に館山だったのか、バフンウニを見つめたのが祖父の拳が宙を切る前だったか後だったか、それはもう曖昧であるが、それから何年も、夏になると空に舞い出す季節の使者を捕まえようと、祖父になったつもりで拳を振り下げるのだが、自分の拳に輝く羽が収まったことは一度もなかった。やはり私は木に止まっているところを捕まえるか、網を使うしかなかった。

6回目の祖父のいない夏。移り行く季節を思う時ほど、人間の一生の短さを感じる時はないと、写真家の星野道夫さんは言った。あと何回僕は夏に出会えるのだろう。数十回で会えるのかもしれないし、もう出会えないのかもしれない。もしもう出会えなかったとしたら、私は大粒の涙を流すだろう。けれどその涙は悲しみではなく、その祖父の拳や、岩陰で動く蟹や、そこに流れ込む波、憧れに中に泳ぎ続けた魚を思って流れるのだろう。水がぐっと押し上げられ、それが岩にあたり、ざばんと砕ける。涙とはそういうものなのかもしれない。

今日は9月1日。今日の霧雨はそっと夏の終わりの垂れ幕に手をかけた。仕事の帰り道、文字通り肌でそれを感じた。

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