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いいんだよ、きっと

自分の人生なんだから、自分で決めればいいと思う。人に迷惑かけて生きる人生も案外悪くないんじゃないかな。

僕は親の目を気にして生きてきた身だけど、中学の時に一度だけ親に反抗した時期があった。いわゆる反抗期。

仲間と夜の8時頃まで小さな川で遊んで、ずぶ濡れになって毎日帰った。家に着くと必ず怒られた。あの頃は楽しかったなぁ。自分の人生をわがままに生きてるって感じだった。仲間とゲラゲラ笑いながら、川にダイブした。

青春だった。


そんな僕も21歳という年齢になり、世間で言う「就職」とやらをしなければいけない、そんな年齢になってきた。

大学を卒業をしたら就職をしなければならない、なんていうメディアが作り上げた常識を、まるで世間の常識のように言うマジョリティには、僕の生き方は理解されないかもしれない。

でも、そんな世間が作り上げた常識という箱に、当てはまりたくても、当てはまらない人もいるということも分かって欲しい。常識というものがあるせいで苦しんでいる人がいるということを忘れないで欲しい。

もっと僕を理解してくれー!なんて街中で叫んだら、警察に捕まってしまうから、このnoteで叫びたいと思う。


逃げることから逃げないで


逃げるは恥だが役に立つ。

逃げるが勝ちなんて言葉もある。

真面目な人ほど物事を複雑に考え、真剣に向き合ってしまうみたいだ。なぜ自分は普通に働けないのか、なぜ自分はみんなと同じようになれないのか、なぜ自分は生きているのか。自分の存在価値は何なのか。

どうやら「逃げる」という選択肢がないらしい。僕を含め、人生を複雑に考えてしまう人は、考えるか戦うの二択で生きているようだ。

ここで一つ。


かの有名な徳川家康は戦で、大便を漏らしながら逃げたことがあるらしい。戦でも「逃げる」「撤退」なんていう戦略があるのに、どうして僕らが生きていく中で「逃げる」という戦略が悪いように思われるのだろうか。

確かに昭和の時代を生きてきた人には負けてしまう弱い人間だ。でもその分過去の人たちよりも面白い人間になれたと思う。

僕は今いる会社を7月末までに逃げる決意をした。大事なのはお金のある生活ではなく、自分の満足いく生活なんだ。

僕は大学1年生の頃、貯金が100万以上あった。何でも出来た。服も好きな服を買えた。高級な靴も買えた。マッチングアプリのプレミアプランへ課金もできた。少し高い外食にも食べに行けた。

だけど、どこか寂しかった。

心が生きていなかった。人生に対してワクワクしなかった。


お金じゃない


人生お金じゃない。なんて言うけど、それは本当だと思う。

大学1年の時にいたバイト先では自分の苦手な細かい作業でミス連発して、毎回怒られるし、大学もオンラインで誰とも会えず楽しくなかった。

人間関係も前からそうだけど苦手だったから、オンラインは余計に難しかった。


そんな日常が暇で辛かったからTwitterを始めた。Twitterで出会う人とたくさん話をした。夢の話。将来の話。どういう価値観を持っているのか。僕はその時間の方がバイトしている時間よりも何倍も楽しかった。

別にお金を貰っていたわけじゃない。でもそのお互いのことについて話をする環境と時間が最高に楽しかったんだ。



人間の欲には限界がある。

食欲、性欲、睡眠欲。

世界一美味しい料理を毎日お腹いっぱい食べても満たされないものがある。

どんなに綺麗な女性を毎日抱いても、綺麗な人を恋人にしても、満たされなにものがある。

どれだけ長い時間寝ても、満たされないものがある。

お金で買えるもので満たすものには限界があるんだ。


人間とは寂しい生き物なのかもしれない。



幸せに生きる


人間が生きる目的はここだと思う。

今日のあなたは「今日は最高に幸せな一日だった!」と自信を持って言えるだろうか?


今一度考えてみて欲しい。

あなたの人生は誰のための人生なのか?



上司のため、好きな人のため、恋人のため、親のため....


違う。

自分のための人生なんだ。


全ての判断基準は「自分が幸せになれるかどうか」だと思う。

生きるって最大のエゴなんだ。ご飯を食べること、睡眠を取ること、全ては自分の人生を生きるためにやっていることなんだ。

こんな事、頭では分かっているんだけど、幸せに生きるってそれでも難しいよな。



毎日が忙しければ、自分の幸せなんて忘れてしまう。自分に無理を押しつけてしまう。気付いたら自分じゃない自分になっている。

忙しさから、当たり前の基準がどんどんと高くなって、前は感謝できたことに今は感謝できない。そんなところに時間を作っている時間はない、なんて思うだろう。


僕もよくそんな気持ちになる。

時間は有限だということを忘れて生きてしまう。

明日死んでもおかしくないのに、なぜか自分の人生を当たり前に生きてしまう。


当たり前を感謝すること


なんでみんな感謝できないんだろう。最近それを考えている。一つ思ったのは当たり前が当たり前だということ。


第二次世界大戦で原爆が落とされた広島では今も根強く、県民同士での帰属意識が強いらしい。原爆が落とされた直後に100年は草木が生えてこないと言われた広島は今、生きた街へと復活した。

なぜこれほどまでになったのか。原爆を落とされた後の広島県民は、絶望的な状況でも生きようと必死だった。だけど生きていく上では利他的に助け合いをしないと生きていけなかったらしい。

自分だけが生きようと思おうもんなら、嫌われてしまうような街だったそうだ。

そんな素敵な助け合いの文化は、今も続いているそうだ。


当たり前の生活が当たり前じゃなくなった時に、人はこれまでに感謝する。僕も大阪→東京の移動は新幹線だったが、この間ヒッチハイクをした。新幹線や夜行バスへの感謝と、自分たちを乗せてくれる人たちへの感謝が溢れた。

無難な人生から有難な人生になって、初めて「有難い」という感謝の気持ちが出てくるんじゃないかな。


そんなことを考えると自分の人生は、普段接している自分以外の人やモノに支えられているんだなと思う。そんな人たちがいるから、今の僕がいるんだ。当たり前の日常を送ることができるんだ。


僕も自分でコーチングをしているけど、僕のコーチングを受けてくれる人がいなければ、僕の人生迷子だったと思う。

感謝しかない。


辛い状況にいると感謝できるものにも出来なくなる。そんな自分が嫌いだから、僕は辛いことから逃げる。嫌いな自分にならないように今日も逃げる。


そんな僕は今日も、自分の人生をわがままに生きるために、誰かに生かされているのだろう。

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