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民主主義とリベラルの限界(悲観)

民主主義の後退

「民主主義は後退し、今まさに崩壊しようとしている」
この意見に皆さんはどう思われるだろうか?
進歩的」な価値観を日々アップデートしてると自称しながら、昔から欧米だけを持ち上げ、「世界市民」を自称しながら北欧に異常な程の誇りを持つ方々は鼻で笑うだろう。曰く「極右の戯言だ」「民主主義が負ける物か」「すでに民主主義と資本主義は勝利したのだ」等々ー。
素晴らしいご意見だ。その類い希なるご見識で、是非とも現実の社会を見てもらいたい物である。
2019年、スウェーデンの調査機関VーDemは、世界の民主主義国・地域が87カ国であるのに対し、非民主主義国は92カ国となり、18年ぶりに非民主主義国が多数派になったという報告を発表した。
さらに同調査機関の最新の報告書を見ると、2020年は自由民主主義の衰退と独裁化の傾向が見られた年であり、世界に占める独裁国の人口割合は、過去10年間で48~68%に増加した事を示している。コロナ対策において多くの国で自由などに対する強権的な措置が採られた事も影響しているのだろう。

こうした「民主主義の衰退」とも見られる動きが世界各国で見られ始めている。
直近の出来事で言えばアフガニスタンがそうだ。
これまで20年もの歳月をかけ、アフガンに「民主主義」を根付かせようとしたアメリカの支援は、強固な団結力・統率力を持つタリバンの前に崩れ去ってしまったのである。
そして皮肉なことに「民主主義の擁護」を外交政策の柱に据えたリベラルのバイデン政権は、このアフガンの民主主義の崩壊を事実上傍観した。
この矛盾は大変興味深い事である。リベラルの言う「民主主義の擁護」とはなんなのかを考え直すべきであろう。

もうお分かり頂けただろうか。
分断と腐敗を生み出してしまう「民主主義」という制度は強くない。
そして我々が思うほどに魅力的でもないのだ。


権威主義の優位

民主主義を選ばなかった国はどのような政体を選ぶのだろうか。
その一つの答えが「権威主義」である。
権威主義を支持する者たちはしばしば「民主主義は愚かであり、一方権威主義は効率的である」と言う。
なるほど。
例えば中国では、発展志向を持つ強大な政府が政治とマクロ経済の安定に努め、広範な国内改革を優秀な官僚が主体となり、議会に制約されることなく、強制的に資源を動員し、成し遂げてきた。

つまり、権威主義国家は、最高権力者に政策決定から軍事までありとあらゆる権限が集中するため、自由に意思決定し遂行できる。面倒くさい議会手続きやメディアや世論も無視できる。
その結果、政策を短期間で効率的に企画立案し実施することが可能になる。
従って短期間で成果を上げることができ、国民の不満を解消したり支持を得ることも可能になる。

政治経済科学などについて無知な大衆が長い時間をかけて意思決定するよりエリートが短時間で独断する方が、効率的であり、成功しやすい
権威主義者たちの主張はこういうことであるのだ。

実際にエール大学助教授・成田悠輔氏の分析(2000年時点の民主主義指数と2001年~2019年の平均経済成長率のグラフ)によると、「民主的な国ほど、21世紀に入ってから経済成長が低迷している」事がわかる(回帰直線は見事に非民主国の「成功」を表している)。

繰りかえして言うが「民主主義は強くない」のである。


燻る不満・極右の台頭

そうして出てきたのが、「極右やポピュリズムの台頭」であろう。
彼らは一体何を考えているのだろうか。
ハンガリーの権威主義的な政権を例にしよう。

ホロコースト研究で知られる歴史学者であり、オルバン首相の側近中の側近として政権に深く関わるシュミット・マリア氏によると政権が目指すものは「コミュニティー、キリスト教、連帯に基づいた非リベラルな社会」であるらしい。なぜそのような社会が必要なのか。彼女はこう答える。

リベラルな社会が国から統一性を奪い、いくつかの異なるアイデンティティー集団に細分化してしまったからです。でも、社会にとって重要なのは、国家に基づいた一つのコミュニティーに結集することです。そうしてこそ、連帯感を持つコミュニティーを築くことができます

朝日新聞GLOBAL+
「世界が無視できない『権威主義的ポピュリズム』、こんな人たちが支えている」

また、オルバン政権を支援するブダペスト・コルビヌス大学のランチ・アンドラシュ学長はこう語る。

オルバンが志向するのは、国民国家の擁護と、ハンガリーの歴史に根ざしたアイデンティティーの確立です。これは、イデオロギーではありません。インテリだけのためのものではないのです。経済、社会、文化すべての指針となるべき存在です」(引用元:同上)

朝日新聞GLOBAL+
「世界が無視できない『権威主義的ポピュリズム』、こんな人たちが支えている」

こうしてみると興味深いことがある。オルバン政権(に近い識者)の認識だ。
彼らは「リベラル」が国家を分断し、失敗させたのであり、そして、国を成功させるのはおそらく民主主義ではないと主張している。

そして何より大きなポイントは、これらの考え方がゆっくりと、じわじわと、現在進行形で、多くの人に、支持をされつつあると言うことだ
例えばデンマークはより強硬な移民政策を取るようになり、フランスの政権関係者は極右政党のムスリムへの姿勢を「弱腰だ」と批判した。また主流政党の多くは、以前は極右が売り物にしていた政策を採り入れている。
何故このように「右傾化」してしまったのだろうか。
その理由として挙げられるのが「エリートへの怒り」であろう。
先ほどの引用よりアンドラシュ学長はリベラリズムやグローバリズムはインテリの為だけの物であるという旨の発言をしている。
実際、アメリカの社会心理学者ジョナサン・ハイト(「社会はなぜ左と右にわかれるのか」の著者)はこう述べている。

(ポピュリズムの台頭について)
…全ての国に共通するのは、権力や特権を与えられたエリートをこれ以上信用できない、彼らは自分のことしか考えていない、腐敗していると大半の人々が感じていることです。…

「欲望の民主主義」幻冬舎新書

「エリート」が自分のことしか考えられなくなった理由は明らかである。
それは
「リベラリズムが個人主義・能力主義を生み出し、その結果「連帯感」が失われたから」だ。
エリートになるためには何をすればいいのだろうか。
答えは簡単で「試験による競争に勝てばいい」のである。
試験の点数は能力に直結すると人々が考えているからである。
学校や塾に通い試験で良い成績を取って国でトップクラスの大学に入り世間的にもトップの職についたら「私は誰よりも頭がいいし、金を多く稼ぎ社会的に尊敬されるのは当然だ」と感じるようになってしまう。
しかもなお、悪いことに、このエリートの言い分には「努力」という正当性がある。
彼らはこう主張するのである。
「私が成功したのは私が努力したからである。努力したからエリートになったのである。努力しない君たちが悪いのだ」と。
こうして出来上がった「能力主義」という最後の差別は「共に協力する」という共同体をぶっ壊し、他人と協力することよりも他人を蹴落とし自らが上に行く方が利益となる社会を作り出したのである
そのような社会で、他人のことを考え導くような「エリート」が生まれるのだろうか。
「エリート」への信頼は最早なくなっているのではないのだろうか?
そう感じる人々にとって「民主主義」や「リベラリズム」といった物は「エリートが自分の身を守る為のまやかしの概念」としか映らない。


その他の問題とまとめ

政治的・社会的問題を簡単に見せ、二元的な世界観を基に主張を展開するポピュリストという集団。
彼らによって「話し合いを重視」する「民主主義」が破壊されたという問題提起がリベラルからしばしばなされる事もある。

これらを総合すると
「現在、民主主義は、権威主義に負けつつあり、同時にポピュリズムによって内部から崩壊しつつある」
ということになる。また、その原因は、
「多くの人の『自分勝手なエリート』に対する怒りや不信、合理的ではない民主主義による『貧しさ』」
にあるということではないか。


さて、「民主主義を守れ」と叫ぶ人が労働者の雇用問題より同性婚のことを議論するようになった今、労働者は自分たちに興味ないエリート」か「過激だが自分たちに目を向ける人」のどちらを選択するのであろうか

少なくとも、そのような怒り、悲痛な叫びを「無知」「大衆の欲望」「ポピュリズム」「無教養」と切って捨てることはできないのではないだろうか?


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