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「書く」ことの嬉しさと怖さについて

毎日noteをはじめて、もう500日以上の月日がたつ。そして、文章を仕事にしてから3年以上のときがたっている。これがすごいことなのかはわからないけど、3年以上も毎日欠かさず文章のことを考えてきたのは紛れもない事実だ。

自分の書いた文章がインターネットに載るとき、常に怖さと恥ずかしさを抱えてしまう。自分の書いた文章で、誰かを傷つけてしまう可能性があるのが怖い。そして、自分の脳内を知らない人に覗かれているようで、なんだか恥ずかしい。

28年間生きてきて、自分なりにいろいろな経験をしてきた。嬉しいできごともあれば、悲しいできごともあった。嬉しさが半分以上、悲しさが半分以下の人生。喜怒哀楽がたくさん詰まった人生。自身の生き方を切り取る言葉。自身の考えを切り取る言葉。様々な言葉を知って、様々な言葉を脳内から外へと出してきた。そして、いろんな人の言葉や経験に影響を受けて今がある。

とはいえ、自分の人生を文章にできるほどの文章力がない事実がただ悔しい。まだまだ自分の文章に納得がいかないけど、自分なりのベストは毎度尽くしているつもりだ。もっと語彙力や経験を身につけて、文章をうまくなりたいと思って、毎日を過ごしている。

言葉の持つ力は、本当に凄まじい。他人の何気ない一言が、人生を大きく変えてしまうこともある。受け手の人生の変化が、いい方向に進めばいいけど、悪い方向に進んでしまうと最悪だ。他人の人生の責任は、誰も取ることはできない。でも、自分が思ってもみない形で、加害者になり得る可能性があるのだ。もちろん、文章を書いた人には責任はない。受け手の解釈次第ってことも、十分に理解している。でも、誰もが他人の人生を変える言葉を持っていることは常に頭の中に入れておきたい。

たとえ心が温まる文章を書いたと思っても、誰かにとっては喉元に突き刺さるような刃になる場合もある。これに関しては自分ではコントロールできないから、どうしようもない。だから、言葉をインターネットに載せる行為が怖くなってしまうこともある。「そんなの大げさだよ」って思うかもしれないけど、誰もがきっと誰かの人生を少なからず変えてしまっている。

じゃあ書かなきゃいいじゃんってお話なんだけど、誰かに文章を読んでもらえる嬉しさも知っているからやめられないんだよね。嬉しい感想をいただくこともあるし、なによりも文章を書くことが好きだから、やめたくない。わざわざ公表する必要がないかもしれないけど、反応をもらいたいから公表する。たとえ誰からも求められなくても、今後もインターネットに自分の書いた文章を公表し続ける。

文章は娯楽で、誰かを傷つけるものではない。心を落ち着かせたり、笑いを生んだり、励ましてもらうために、僕は文章を読んでいる。誰かを傷つけてしまう文章も、ときには必要なのかもしれない。僕は自分が読んだときに、自分が悲しくなるような文章をなるべく書きたくない。だから、自分のためにも、読者の方に楽しんでもらえる文章を書いていきたいな。

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