見出し画像

好きって、一体なんですか?

先週の土曜日に、大学の同期の結婚式に出席した。

今年に入ってから先輩が2人、同期が4人、後輩が2人結婚しているFacebookを開けば、結婚の報告。インスタには子どもを出産したというストーリー。

28歳にもなると、結婚や子育てのトピックでSNSが盛り上がることが多い。家族と睦じい生活を過ごす人もいれば、結婚を後悔して離婚してしまった友人もいる。

そんな中、僕自身は結婚はおろか恋人すらいない。いつになったら結婚できるのかと少し焦りもある。でも、結婚の見通しすら立てることができない現状を無理矢理にでも打破しようという強い気持ちはない。

いくら焦っても状況は変わらないし、余裕のない素ぶりは相手に伝わる。だから、目の前のことに集中し、そのフェーズで出会う人と恋をすればいいという考えだ。

「モテそう」と言われることもあるが、実際はモテない。女の子と遊ぶこともあるが、好きにはならないし、相手側もおそらく僕に恋愛を求めていない。美味しいものを食べて談笑して、解散。それ以上はなにも起こらない。だから、異性を惚れさせることはおろか惚れることもない。

マッチングアプリの利用の提案もされたこともある。マッチングアプリは友達になれるかもしれない異性を、恋愛のフィルターにかけなければならないという点が苦手だ。関係性の形はひとつではないのに、恋愛に無理矢理押し込む形態が僕には合わない。別の形で出会っていたら友人になっていた可能性もあるし、その可能性を最初から閉じてしまうのはもったいないような気がしている。

友人や先輩には「もっと遊べ」と言われている。でも、ワンナイトで得られるのは、虚無感と罪悪感だけだ。一過性の性的な欲望のために、僕はじぶんを安売りしたくない。贅沢なのかもしれないが、じぶんのポリシーは守っていたい。

こんな話をすると「考え方が古風だね」と言われることがある。1人の人を愛したいという気持ちが古風であれば、僕は一生古風のままでいい。たった1人のために、じぶんを捧げたいという気持ちのなにがいけないのだろうか。

古風万歳。古風なままで死んでいこうぜ。

恋愛記事を仕事で書いているし、仕事で恋愛相談に乗っているくせに、自分の恋愛がわからない。客観と主観では違いが大きすぎて、自分ではもはやどうにもならない。そして、「自分がいいな」と思う人はたいがい恋人がいる人か、既婚者だから勝負の土俵に立つことすらできない。

「好きとは一体なんなんだろうか?」

月が綺麗、試着室で思い出す、美味しいものを食べたときや綺麗な景色を見せてあげたいと思えること、友達には戻れないこと、ほんの少し生活が乱れる、こんなはずじゃないの連続、2人だけが分かっていればいい、好きなものの最後の一口をあげることなど諸説ある。そのほかにも異性として好きなのか。人間として好きなのかという問題点も出てくるため、「好き」とは非常に厄介な問題だ。

でも、好きの本質は言語化できないものだと思う。好きを言語化すればするほどありきたりな言葉へと劣化する。好きな理由が増えれば好きは残るけど、好きな理由がなくなれば、好きは嫌いへと変換される。だから、好きには理由はいらないし、好きな理由なんて探さなくていいのかもしれない。

好きがなにかはわからないけど、僕には結婚願望がある。いいお相手が見つかった場合は、すぐさまにでも結婚したい。もし結婚したらみんなにじぶんの奥さんを自慢するし、惚気大会を勝手に開催もする。じぶんの子どもに「俺の奥さん」って対抗心を燃やすし、奥さんの髪の毛をドライヤーで乾かすのだって苦じゃない。ふたりの時間を大切にしたいから、記念日も誕生日もちゃんと祝う。

でも最近は人を好きになるって気持ちがわからない。好きな人を作ることに焦ってはいないけど、焦りはあるというのが本音だ。

ところで、好きって一体なんですか?

ありがとうございます٩( 'ω' )و活動資金に充てさせて頂きます!あなたに良いことがありますように!