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夏を、待っていました

去年の夏は、楽しみにしていた花火大会や海開きなどの行事がほとんど中止になった。去年の我慢を今年こそはぶちまけたいと考えている人もきっと多いだろう。

僕もその中の1人で、ずっと夏を、待っていました。

梅雨のシーズンに突入すると、夏がやってきた感覚がある。雨が降ったりやんだりする中で、晴れ間が差している間に、少しでも外に出ることの喜び。そして、雨の音を聴きながら、ベランダでコーヒーを飲むあの時間がたまらなく好きだ。

今年の梅雨入りは、例年よりも3週間も早くやってきた。去年の夏からずっと今年の夏を待ちわびていたんだけれど、いざ夏がやってくると春をもう少し楽しみたかったと思ってしまうじぶんがいた。

夏が早くやってきたということは、春が短命だったということだ。季節の中で1番好きな春。春は花が街を彩る。出会いと別れもあるし、なにかを始めるのにちょうどいい季節だ。そんな春を謳歌したいと思っていたのに、5月は誰も会いに来れない病床が僕の住処と化していた

看護師さんとの会話やNetflixが唯一の楽しみ。ご飯は薄いし、物足りない。とてもじゃないけれど、いきた心地があまりしなかった。病床は景色がほとんど変わらない。毎日が同じ風景で、毎日が同じ生活の繰り返しである。やってくるのは不安ばかりで、微かに見える希望に縋るしかなかった。

そして、治療の甲斐もあって、病床を去り、いつもどおりの日常が戻る。外は適温から暑さが気になる気温へと変わっていた。去年楽しめなかった分、春を楽しみたいけれど、楽しめない。楽しみたかった春はすぐに過ぎ去り、予想よりも早く夏がやってきた。

退院してからの生活は、生きた心地を取り戻せたような気がする。家の近所を散歩するだけで幸福だったし、家のベッドで眠るたびに、明日に胸を震わせていた。たくさんの人が退院を祝福してくれて、1人じゃないとなんども思わされたし、素敵な人に囲まれているじぶんを誇らしく思えた。

5月を楽しめなかった事実もある。でも、きっと入院はじぶんに必要なものだったにちがいない。むしろ必要だったと思わなければ、やってられないし、こいつを前向きに変えられるのもじぶん自身しかいない。だから僕はせめてもの救いとして、5月の1ヶ月間を空白期と呼ぶことにした。

5月は空白期であり、先の喜びをより深く味わうための充電期間でもある。楽しめなかった分は、夜に食べるデザートのように思いっきり味わえばいいし、すべての悲しみはよりよい未来のための伏線だ。

去年からずっと夏を、待っていました。

去年の夏はさまざまな行事が中止になり、思うように楽しめなかった。でも、今年はきっと楽しめるはずだ。その証拠に街の紫陽花がとても綺麗に見える。

紫陽花の花言葉のように「和気あいあい」と夏を過ごしていきたい。紫陽花は短命だからこそ、必死に咲いている。それは僕たちの人生と同じで、限りない命をどれだけ必死に生きるかが、人生の幸福度を大きく左右する。

でも、必死に生き過ぎると、息切れを起こしてしまうから、適度に休息をとりながら、今年の夏を思う存分楽しんでいこう。


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