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10年後の自分なんて想像できないけど、きっと幸せに暮らしていると思う

「ねぇ、10年後の自分がどうなってるかって想像できる?」

友人からの質問だ。僕は10年後の自分をいつもうまく思い描けない。だから、この質問に口をつぐんでしまった。この手の質問にはうまく答えられた試しがない。この先の10年間でどんなことをして、どんなものを手に入れて、どうなっていたいのか。目まぐるしくすぎるこの日々の中で、10年後の自分についてなど考えもしなかった。

それだけ毎日を生き抜くだけで必死になっているのだろうか。とあるエッセイに「1人の時間はあっても、それは喧騒の中の1人なんじゃない?」と書いてあった。確かにそうだ。僕が過ごす1人は、「1人であって、孤独」ではない。iPhoneを開けば、誰かがSNSにいて、外に出れば、誰かがいる。本当の意味での独りの時間を、最近取る余裕がなかった。7月も終わり、月を跨いだいい節目なので、喫茶店で10年後の自分について考えてみよう思う。

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「10年後の自分はどうなっているか?」

どれだけ頭を捻って、紙にペンを走らせても、10年後にどうなっているかなんて想像できない。5年、いや、3年後の自分ぐらいしか想像できないってのが本音だ。3年後になっていたい理想の自分像はもちろんあるけれど、ここに書くのはちょっと恥ずかしい気もする。だから、あえて書かないでこの場をやり過ごしたい。いつかちゃんと意思が固まったらちゃんと書くからいまはノートの中にそっとしまわせてほしい。

20代後半になったいま、周りの友人は次々と結婚していった。幸せそうに暮らす家庭もあれば、別の道を歩んでいる人もたくさんいる。幸せな家庭を築いている家庭はたしかにうらやましい。生涯孤独は考えられないし、いつかは誰かと一緒に暮らしたいとは思う。でも、結婚が自分の求める幸せかどうかはいまのところわからないし、結婚とは別の形の幸せを好きな人と模索しているかもしれない。

マイホームにしても必要かどうかがわからないし、一生賃貸マンションに住んでいる可能性だってある。これに関しては、暮らしによって変化させたいと思っているし、好きな人の意向に従いたいと思う。自分がないと思う人もいるかもしれないけれど、暮らしに関してはあまりこだわりがない。好きな人と一緒に暮らせるだけで幸せだ。好きな人が住みやすい家を選ぶことで、好きな人の笑顔が多くなるのであれば、好きな人の意向に合わせた方が僕も幸せを感じる機会が多くなると考えている。僕は世間一般の幸せではなく、自分にとっての幸せを追求していきたい。

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先日、「やりたいことがないんです。目の前の出来事をちゃんと楽しめたらそれでいいかな」と話す方とお会いした。夢はなくとも、目の前の出来事をちゃんと楽しんでいる人に惹かれる傾向がある。そういう人を見るたびに、目の前の出来事を楽しめているのならば、もしかしたら夢なんてなくてもいいのかもしれないと思ってしまうし、それはきっと間違いではないんだろう。

大人たちは目先の出来事よりも、大きな目標や10年後の自分についての話が大好きだ。その流れに乗じて、たくさんの人たちが今日もどこかで大きな夢について語っている。でも、本当は「明日はこれがしたい」だとか「来月は旅行に行こう」みたいな目先の楽しみがあれば、それだけで人生は十分に楽しいのかもしれない。10年後の自分について考えてみたけれど、いつも通り答えは出なかった。「目の前の出来事を存分に楽しめ」と言われているのかもしれない。

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いまの人生にはまだ満足していないけれど、とても楽しい。文章を仕事にして、辛い出来事の方がいまのところ多い。プライベートと仕事の見境もつかなくなったけれど、それでも文章を選んで良かったと胸を張ってそう言えるし、自分の選んだこの道に後悔はない。

ふと思いつきで、「飲みに行こうぜ」って誘ったら「いつ行く?」と言ってくれる友達もいる。ダメダメな自分に優しい言葉を掛けてくれる人もいれば、「そんなんじゃダメだよ」と厳しい言葉で叱ってくれる人もいる。難病になっていまも治療中で、目が見えづらい日もあるけれど、たくさんの人に囲まれているこの人生は僕にはもったいないぐらい幸せだ

完璧な人生計画を作りたいと思いはするものの、そんなものは必要ないと思っている自分もいる。人生という長い舞台で、あらかじめ人生計画と呼ばれる脚本を書いておく行為は必要だと思うし、脚本が役に立つ日は絶対にある。でも、舞台が始まって、観客の歓声や俳優の心境変化を適宜観察して、台詞を追加したり、シチュエーションを変更する柔軟性も持っていたい。

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たとえ綺麗な計画表を作ったとしても、人生ってやつは思い通りにいかないのがセオリーだ。自分の人生に完璧な丸をつけてあげたいとは思うんだけれど、綺麗な丸は躓いたときに止まることなく、そのまま綺麗に転がり続ける。でこぼこな丸であれば、躓いたときに止まったり、そのまま転がることもできるから、完璧な丸なんて目指さなくていいのかもしれない。綺麗な丸じゃなくて、でこぼこな丸のままで、ダメな自分を愛したいし、そんな自分を誇りに思いたい。

これから先の人生でも路頭に迷ってしまう日はやってくるはずだ。たとえ路頭に迷ったとしても、最終的には納得できる道を歩めると心から信じているし、どんなときも未来にワクワクする人生に自分でしてみせる。そして、目の前の出来事をちゃんと楽しんだり、悲しんだり、ときには怒ったりできるそんな人間でありたい。

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