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「優しさ」の押し付けをしないこと

相手に送った言葉や行為を、相手が「優しさ」と感じるか、「押し付け」と感じるかは相手次第。だから、自分が送ったものを勝手に「優しさ」と名付けない。

そして、側から見れば「優しさ」だとしても、受け取り手のタイミング次第では、「凶器」になる場合もあるから、絶妙なバランスを取るのが本当に難しい。

僕は「寄り添う」という言葉に、ときおり気持ち悪さを感じてしまうときがある。

相手の気持ちは相手しかわからないのに、その気持ちに寄り添うだなんて絶対にできない。相手の「拠り所」になることはできるかもしれないけど、相手の気持ちに寄り添うなんて、僕にはとうてい無理な話だ。

相手が寄り添ってもらったと感じる場合はもちろんあるけど、こっちが勝手に「寄り添ってあげた」と思わないようにしている。

辛さの当事者に僕らができることは、弱音や愚痴を聞いてあげたり、美味しいものを一緒に食べることぐらい。ときにアドバイスを送ったりすることもあるけど、本当の辛さは相手にしかわからないから、間違っても「寄り添う」だなんて言葉は使わない。

いくら綺麗な言葉を並べても、自己満足にしかならないし、本当の意味で相手を理解したとは言えないんだよ。

本当に辛いときは、気の利いた言葉を投げかけてもらうよりも、ただ側にいてもらえた方が嬉しい場合もある。側にいてもらえるだけで、救われる場合もあるし、そんな人間が何人かいるって事実自体が救いだ。

普段は否定も肯定もせず、ただ側にいるようにしている。

美味しいものを食べたり、他愛のない会話をした方が、かえって気持ちがスッキリする場合ってありませんか?

辛さの当事者を目の前にしたときは、基本的には「ただ側にいる」を徹底する。相手が笑いを求めるのなら、なるべく笑ってもらえるように頑張るし、少しの自己犠牲も厭わない。

相手が話をしてきたときに、相手の話に耳を傾ける。そして、アドバイスを求められた場合は、自分の思いを相手に伝えるようにしている。

相手が求めていないアドバイスを送る行為は、相手に「こうあってほしい」と自分の願望を押し付ける行為でしかない。だから相手が求めない限りは、アドバイスはしないようにしているんだよ。

相手の気持ちには僕は寄り添えないから、相手にとっての「拠り所」になる。でも、相手にとって「優しい人」でありたいのは事実なのであろう。

「優しい人」でありたいと考えている自分は、もしかしたら1番傲慢な人間なのかもしれないけど、誰に何を言われようが、どんなときも相手に愛情を注ぐことを忘れたくないんだよ。

「優しさ」の押し付けは、傲慢な行為にしかならないけど、相手の「拠り所」になるのは自分にもできること。

「優しさ」を押し付けるのではなく、あくまで「あなたの味方だよ」というスタンスを崩さないようにしたい。

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