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渋谷事変で描かれた「呪術廻戦」のタイトルの意味とは?それは仲間の想いを胸に、廻り続ける戦い

どうも、SaRです。

「呪術廻戦」、本当に人気が鰻登りでファンとしては喜ばしい限りです。さて、今回はジャンプ今週号掲載の第136話で終結した「渋谷事変」編で感じたこと、そして本作のタイトルの意味について考えたことを書いていきます。

もちろん、最新単行本14巻以降の本誌掲載内容に触れますので、ネタバレが気になる方はご注意を!!!

虎杖VS真人、因縁の決着!「オマエは俺だ」という真人の言葉について

「渋谷事変」編は全56話あり、最新話までのうちの4割以上を占める大長編でした。これまで敷かれてきた伏線の回収や、因縁の決着、そして更なる謎など多くのことが描かれましたが、その中でも大きなトピックスの一つが、虎杖VS真人の決着です。

真人が言う、「オマエは俺だ」という言葉、最初に第121話を読んだ時から、真人が再びその発言に触れる第126話まで、そしてその後もずっと考えていました。詭弁をずっと考えてしまっている時点で、既に真人の(そして芥見先生の)術中に嵌まっている感じがしますが(笑)。

ただこの言葉は、皮肉にも虎杖の今後の行動指針になってしまったように感じます。

少し整理すると、虎杖は第1話での祖父の死、そして杉沢第三高校での事件で、人が誰かに殺されたりしてしまうような、「間違った死」を防ぎたいという考えに至りました。死ぬのは仕方ないが、せめて「正しく死んで欲しい」、そしてもし自分が死ぬ時は、大勢に囲まれて死にたいと。ただその「正しい死」とは何なのか掴めておらず、里桜高校での真人との初めての戦いで改造されてしまった人間を殺し、考えが揺らいでしまいます。

また、「起首雷同編」の八十八橋での一件でも分かった通り、虎杖が宿儺を受肉させてしまったことで各地でナリを潜めていた指と共鳴が起き、被害が出ていることが分かってしまいます。「オマエがいるから、人が死ぬんだよ」と。

それでも虎杖は、宿儺という爆弾を抱えることは、自分しかできないことと考えていました。そして爆弾を抱えてはいても、誰かを助けて間違った死を防ぎ、正しい死に導くことが、「生き様で後悔はしたくない」自分が進むべき道だと。そこに自身の存在価値を見出していました。

ただ、渋谷事変では宿儺によって、渋谷中心部が甚大な被害を被ります。宿儺が身体の主導権を握っていたとはいえ、虎杖は人を正しい死に導くことを信念にしていながら、多くの人を間違った死に導いてしまいました。それにより、「自分の信念は、自分が死なないための言い訳だった」「こんな自分が大勢の人間に囲まれて死ねるわけがない。ただの人殺しだ」と感じてしまいます。

そして渋谷事変での真人の発言で、更にその考えがひっくり返ります。

これはな 戦争なんだよ!!間違いを正す戦いじゃねぇ!!正しさの押し付け合いさ!!ペラッペラの正義のな!!オマエは俺だ 虎杖悠仁!!俺が何も考えず人を殺すように オマエも何も考えずに人を助ける!!呪いの本能と 人間の理性が獲得した尊厳!!100年後に残るのはどっちかっつーそういう戦いだ!!

虎杖は「正しい死」「間違った死」という考えにずっと囚われていたましたが、ここで「真人の思う正しさ」を押し付けられてしまいました。「正しい死も間違った死もクソもねぇ。生きるか死ぬかだろ。最後に生き残った方が結局正しいんだよ」と。

真人が何も考えずに人を殺すのと同様に、虎杖も何も考えずに人を助ける。何も考えず、自分が正しいと思うことをやっている時点でおんなじだろ、ということです。だから、「オマエは俺だ」なんですよ。それでも自分が正しいと思うなら、我を通したいなら、お互いの正しさを押し付け合って、勝った方を正しくするしかない。それがペラッペラの正義だろ、と。

そして第132話で、虎杖は遂に「俺はオマエだ」と認めます。それは、真人がいかに相容れない相手だろうと、ペラッペラであろうと何だろうと、「勝った方が正義」。これはもう、人間と呪いの間では揺るがないことだから。

そして、真人の言っている逆を言えば、負けた方は悪=正しくなくなってしまう。もし自分たち呪術師が負ければ、呪いが正しい、つまり人間が生き残れず、これまで死んでいった仲間たちの想いや信念も無駄にしてしまう。だからもう、虎杖にとって「多くの人を正しい死に導くこと」「大勢に囲まれて死ぬこと」は関係ないんです。

ただただ、歯車でしかなくとも「錆び付くまで呪いを殺し続ける」。「呪術師に悔いのない死などない」から。

野薔薇に笑顔をもう一度

渋谷事変の中でも大きな衝撃の一つが、野薔薇が死にかけたこと。「今すぐ治してくれ家入!!」と思いました。ですが、反転術式は万能ではありません。虎杖と血塗&壊相兄弟を倒した際も、蝕爛腐術・極ノ番「翅王」でやられた腕を見た野薔薇は、傷跡が残るかもと言っていましたし、何よりこれまで無為転変の被害者である改造人間たちが手遅れだったのも同じです。

術式としての考え方は別だったとしても、反転術式が何をベースに、具体的に言えば治す元の雛形として何を使うかというのは、恐らく真人の術式で言うところの「魂の形」なのだと思います。だから、魂の形が変わってしまった無為転変の犠牲者たちは、反転術式では元に戻せない。京都校1年の新の術式によって傷の悪化を止め、恐らく一命を取り留めはしたものの、野薔薇の顔の左半分は戻らないでしょう。

私は綺麗にオシャレしてる私が大好きだ!!強くあろうとする私が大好きだ!!私は「釘崎野薔薇」なんだよ!!


と啖呵を切り、自分が自分であるために田舎から高専に来たと語っていた野薔薇。自分の「人生の席」に座っていないやつのことなんか知ったこっちゃない。そんな凛とした美しさを持っていた女の子の顔に、真人は生涯治らない傷をつけました…野薔薇の笑顔がもう一度見れることを、僕は切実に願っています


ナナミンが託した覚悟

ナナミンの死、これもショックの大きかった出来事です。僕は最初に読んだ後はちょっとした放心状態になり、まずは煙草を吸いにいきました(そしてアニメでの津田健次郎さんキャストが発表された翌週にこの展開という、悪魔的なタイミングに恐れ慄きました)。

第30話で真人の自閉円頓裹に閉じ込められた時、ナナミンは

呪術師はクソだ 他人のために命を投げ出す覚悟を 時に仲間に強要しなければならない だから辞めた というより逃げた

とモノローグで語っていますが、第120話の死の間際に、この言葉が繋がります。結局それが呪いだと分かっていても、虎杖に

後は頼みます

と言わずにはいられなかった。こんなにやるせないことがあるでしょうか。虎杖にとっても、ファンにとっても、「労働はクソ」「呪術師はクソ」と言いつつ、しっかり仕事をこなし、事実を元に結果を正当に評価してくれるナナミンは、本当にカッコイイ、それでいて等身大の先輩でした。高専を卒業して大人になった虎杖たちと出張に行ったり、飲みに行ったり。そんな姿を見たかった…(もはや書きながら泣いてます)。

「呪術廻戦」、それは廻る戦い

「呪術廻戦」というタイトル、ファンの皆さんはどのように考えているのでしょうか?僕は、今回の渋谷事変でその答えのいくつかが描かれたと思いました。

特にキーになるのは「廻戦」の部分です。「廻」の字について、デジタル大辞泉によるとこのような意味が出てきます。

①〈カイ〉まわる。まわす。かえる。「廻状・廻船・廻転」
②〈エ〉めぐらす。まわす。めぐる。「廻向(えこう)/輪廻(りんね)」
 [補説]「回」と通用する。

多くの意味はあるでしょうが、まず呪術師サイドから見れば、今回書いてきた、真人との決着で出した虎杖の答え、そしてナナミンから託された覚悟のことだと思います。

ナナミンが、「呪術師はクソ」と結論づけた理由、他人のために命を投げ出す覚悟を、時に仲間に強要しなければならないということ。それは、生き残った仲間が覚悟を受け取って続けていく、「廻り廻る(めぐりめぐる)戦い」です。

ナナミンを失い、野薔薇も死んだかに思え絶望した虎杖に東堂がかけた言葉も、それを表しています。

あらゆる仲間 俺達全員で呪術師なんだ!!俺達が生きている限り 死んでいった仲間達が真に敗北することはない!!

そう、それは終わりなき戦いです。どちらかが居なくなるまで、どちらか片方が生き残る=勝つまで続くんです。つまり、「廻転(回転)」する歯車の如くただただ呪いを殺し、その殺した呪いが別の呪いとして名や姿を変えた別の呪いとして「輪廻転生」しようとも、錆び付くまで戦い続けるということです。

仲間の死、呪いや呪詛師による凄惨な所業、そういった現実から目を背け、負の感情に囚われれば、人は簡単に闇に堕ちていきます。呪力を操るということは、自分の負の感情の力をコントロールするということ。だから、仲間が傷ついても、死んでも、それに向き合って苦しみ、負の感情を呪力に変えて、託された覚悟を胸にして戦っていくしかないんです

また、宿儺についてもタイトルの意味が当てはまります。呪術全盛の時代、術師たちは総力をあげ、宿儺に敗れた。しかし、死後強力な呪物になった宿儺は、受肉し再び脅威として人間たちの前に現れます。そんな宿儺と人間との、「廻る(めぐる)戦い」。

他の呪いたちにとっても、同様に当てはまります。漏瑚の言う

百年後の荒野で笑っているのが我々である必要はない

それは漏瑚たちではない全く別の呪いであってもいい、という意味でもありますが、別の意味もあります。真人が「人」から産まれた呪いである以上、また真人でない自我を持って呪いとして生まれる可能性があるように、それは漏瑚や花御、陀艮たちも同じです。つまり、「輪廻転生」してまた「廻り(めぐり)会うための戦い」とも言えます。だからこそ最期に花御と陀艮にかけた言葉が、

百年後の荒野でまた会おう

なんです。

そして、呪術師と呪いサイド、両方に当てはまるものが、九十九と夏油(加茂)による、「呪力を廻る(めぐる)戦い」。世界から呪霊をなくすため、全人類から呪力をなくすか、もしくは呪力の可能性を求め、非術師を淘汰するか。

そんな多くの意味が、「呪術廻戦」というタイトルにはあると思います。

まぁ色々言いましたが、芥見先生曰く「漫画を描くときテーマは特に決めておらず、"なんとなく"の連続。結果テーマが生まれることはある」とのことなので、虎杖と真人の「堂々廻り(どうどうめぐり)」の口論のような、「呪術師と呪いの終わらない戦い」という意味での皮肉もあるのかもしれませんが。正にこの思考自体が堂々廻り(笑)。


終わりに

この辺で、渋谷事変についてのnoteは一旦終了。次回は今後の展開予想や、これまで判明した事実からの考察を書きたいと思います。

ジャンプの月曜発売号からは、本編はいよいよ新章突入!五条の不在、そして夏油(加茂)の無為転変、解き放たれた呪いにより、戦いは一層混沌を極めていきます。野薔薇はもちろん、真希や棘の安否も気になるところで、ますます目が離せません!

虎杖、”憎悪も、恐怖も、後悔も全て出し切れ。拳にのせろ!!”



※引用元

・「呪術廻戦」0〜14巻

・「週刊少年ジャンプ」2020年45号〜2021年8号「呪術廻戦」

『呪術廻戦』公式Twitter

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