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#掌編小説

〈掌編小説〉 『鯨』

〈掌編小説〉 『鯨』

「僕、実は鯨なんです」
 最近よく顔を見るようになった男はそう言った。私が働いている定食屋でいつも唐揚げ定食を食べている。27歳の私と歳の近そうな男だ。
「わざわざ大海原から遥々いつもありがとうございます」
「いえ、海と比べたら陸なんて大した広さではないので」
「それでも泳ぐよりは遠いでしょう」
「この2本足というのが面倒で」
「いつもはヒレですもんね」
「そうではなくて、4本あるんだったら4本使

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掌編小説・桜泥棒

 彼が桜を持ってきた。彼、というか元カレなんだけど。鉢に入った盆栽みたいな桜は葉桜だった。前に見た時よりもひと回り大きくなっていた。「君と一緒なら花が咲くだろう」と言って、私の部屋の玄関先で鉢を押しつけて、私からはなにも話す間もないまま彼は去っていった。
「なに、それ」
 遊びに来ていたユースケくんが部屋の奥から私の抱えている桜を見て聞いてきた。
「これ、万年狂い咲きの桜だったはずなんだけど」
 

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〈掌編小説〉夢で会いたい

〈掌編小説〉夢で会いたい

 春を迎えた朝に私は夢を見た。

 夢の中で繰り返し何度も会う人がいる。その人はどこか現実の誰かに似ていて、それが誰なのかは私にも分からない。

 夢の中のあの人は私の恋人らしくて、でも名前も知らないし、夢で会うたびに幸せな気持ちになるけれど彼と私はどんなふうに出会ったのか知らない。

 夢の中で何度も彼と会う。カフェでデートもするし同じベッドで寝ることもある。そのたびに私は幸せに起こされる。

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掌篇小説 人魚の鱗

 少年は人魚から鱗を貰いました。人魚の鱗です。それは太陽に透かすと七色に輝きました。
 少年はそれを街の知り合いたちに見せて回りましたが、ひとりとしてそれを人魚の鱗だとは信じませんでした。誰も人魚の鱗を見たことがなかったからです。少年はその鱗が人魚のものであると証明する手立てを持っていませんでした。
 その夜、少年は間違いなく人魚から鱗を貰ったのだと頑なに信じて眠りましたが、翌朝目が覚めるとそれは

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法で裁けない悪に走らせたい彼女は人を殺さないお酒で長生きする(掌編小説)

 手の傷に沁みるアルコール消毒液を我慢していると「その傷、なにでやったんですか」と聞かれ、倫理と道徳の隙間を突いたセックスの一環でつけたものだと一言目には言えなかった。この店は入る時にゴム手袋をした女の人が客の手を揉みながらアルコール消毒するのがウリで密かに人気を得ているらしく、ゴムの性能を信用しないと入れない店だ。いつも自分で揉み込んでいるものを他人に揉み込まれると人権を一部奪われた気がする。あ

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とびきりのおしゃれして別れ話を / SISの卒制・掌編小説

とびきりのおしゃれして別れ話を / SISの卒制・掌編小説

 これはもう数ヶ月前から分かり切っていたことで、1週間前に合わせたデートの予定が2日前になって別れ話の舞台になってしまった。彼がどうしても話したいことがあって場所を変えてほしいと言うので、私がそれは別れ話かと聞くとそうだと言った。
 どんな服を着て行こう。彼はいつも当たり障りのない服を着てきて、でも他人の着ている服には厳しくて、あれは派手すぎる、あの人は年齢のわりに服装が若い、カバンがダサいなどと

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掌編小説・万年桜と春生まれの彼女

 春生まれの彼女と一緒に桜を持ち帰ってきた。春からずっと花が咲いている。秋になり彼女が1週間出張で部屋を空けると花びらが散り始めた。彼女が戻ると桜は散るのをやめ、花は勢いを取り戻した。また春が来て彼女が部屋を出て行くと東京の開花宣言も出ないうちに部屋の桜は全て散ってしまった。
 そして部屋の桜は夏になって葉をたくさんつけて、風が部屋を抜けると葉の擦れる音が綺麗だった。エアコンをつけると葉を落とし始

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