掌編小説・桜泥棒


 彼が桜を持ってきた。彼、というか元カレなんだけど。鉢に入った盆栽みたいな桜は葉桜だった。前に見た時よりもひと回り大きくなっていた。「君と一緒なら花が咲くだろう」と言って、私の部屋の玄関先で鉢を押しつけて、私からはなにも話す間もないまま彼は去っていった。
「なに、それ」
 遊びに来ていたユースケくんが部屋の奥から私の抱えている桜を見て聞いてきた。
「これ、万年狂い咲きの桜だったはずなんだけど」
 この桜は私が元カレと付き合っていた頃、アスファルトの隙間を縫って細々と生えていたど根性桜を拾ってきたのだ。それが一度目の春以来ずっと花を咲かせていたのだけれど、別れた彼が持ってきたのは青々とした葉桜だった。
「なんでかこんなに青々としてる」
 ユースケくんは、ふうん、という顔をして冷蔵庫を開けた。
「もうビールないよ」
「げ。なんでビール飲みたいって分かったの」
「だってやった後絶対ビール飲むじゃん」
 彼のことはもう忘れていた。いまさらこんなの渡されても困る。
「ユースケくん、これ要る?」
「うーん、いらない」
「お店に飾れば? 来年の春には花が咲くかもよ」
「お〜。お花見か、いいねえ」
 帰りにちゃんと持ち帰ってよね、と言って私は桜が植えられた鉢を玄関へ置いた。

§

 それから1週間してユースケくんから連絡が来た。
「桜が咲き始めた。綺麗すぎてやばい」
 一緒に送られて来た写真の桜は見事に満開の桜だった。私が見ていたのはその姿だけだった。私以外のところでも全然咲くじゃん。見ず知らずの客相手にだって花を見せているんだ。君と一緒なら花が咲くだろう。彼が玄関先で言った言葉をふと思い出していた。
 ユースケくんがやっているカフェのインスタグラムでその桜を載せたところ、またたく間に桜が有名になってしまって、万年狂い咲きの桜目当てに来る客でユースケくんのお店は繁盛した。テレビや有名なユーチューバーなんかも来て、私の預かり知らないところであの桜の花は人々を魅了していた。
 アスファルトの隙間でかわいそうだったのを助けたのは私なんだぞ。誰に言うべきなのか、誰にも言いようがない文句を言いたくなる。
 ユースケくんのお店の閉店間際の時間に私は桜を見に行った。桜は相変わらず笑顔を振りまくように咲き乱れている。
「ユースケくん、もうお店終わり?」
 ずっと客の相手をしていたせいか顔が疲れている。
「ああ、でも片付けが残ってるから。終わったら部屋に行くよ」
 じゃあビール買って待ってるね、と言うとユースケくんは満足そうな顔をして厨房の奥に消えた。
 そして私は桜が植えられている鉢を抱えると店の外に出た。
 カーディガンを桜の上から被せた。ごめんね。でも少しだけ我慢してね。
 夜の街を早足で抜けて、私は彼の部屋へと急いだ。少し前、一緒に住んでいた部屋だ。
 インターホンを押すと彼が出てきた。桜を見て、私を見て、もう一度桜を見た。
「これ、やっぱりあんたのところにあったほうがいいよ」
「困るよこんなの」
 彼が私にやったみたいに、私も彼に鉢を押しつけた。
「もうこんなバカみたいに花咲かせさせんな!」
 私が大声でそう言うと彼は観念したのか、鉢を受け取った。
「あんたのところじゃなきゃこの桜はダメになっちゃうよ」
 なんでか私は泣きそうだった。たくさんのインスタグラムに載せられた写真やテレビやユーチューブで見る桜は痛々しかった。かわいそう。そんなに誰にでもずっと笑顔でいなくていいのに。
「あなたのもとでしか桜は散らないから」
 彼の手の中で桜の花びらがさめざめと散り始めた。さよならも言わないで私は彼の前から去った。
 帰り道、煌々と光るコンビニで無愛想な店員からビールを2本買うと、自動ドアをくぐるやいなやプルタブを開けてビールを飲み干した。やった後のビールはやっぱりおいしかった。


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