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「ぴえん」型個性、曖昧なシニフィエ

本当の自分、ありのままの自分、耳障りがいい言葉だ。

それを心置きなく露呈できる環境や関係を、多くの人は幸福の一条件と見なすことだろう。

人は皆それぞれ魅力的な個性を有していて、それを抑圧したり是認しないような事物は好ましくないと、とりわけここ現代見なされている。

しかし、この「ありのままの自分」という像は、決して自立的に形成されるものではなく、ある特定の時代の、特定の人間関係やカルチャー、トレンド、言語構造、思想潮流などの中で、その一部として醸成されていくものであるというのがとりわけフーコー以降のスタンダードな人間の捉え方だ。
その意味では「ありのままの自分」とは、限られたいくつかの特性とその組み合わせから成り立つせいぜい4の5乗程度のパターンのうちの一つである場合が多い。

もっとも、このパターンの外側に位置するパーソナリティを持った者こそがナポレオンやイーロン・マスク、スティーブ・ジョブズのような「改革者」であり時代のゲームチェンジャーだと解釈することもできるが、それもまた「ゲームチェンジャーパターン」としてある種カテゴライズされることで一定に循環する歴史を記述するというフレームワークからは易々と逃れられない。つまり並大抵の人間ではこのカテゴライズからはそう簡単に抜け出せるわけもなく、大半の人間がいずれかのパターンの内部に存在しているのである。


先日、こんな本を目にした。

【「ぴえん」という病 】
佐々木チワワ著


歌舞伎町を中心に近年跋扈している「ぴえん系」と呼ばれる若者についてソフトに分析したといった内容だ。

「エモい」「卍」といった若者言葉に続き、「ぴえん」という簡素で記号的な感情表現が若年層の文化圏ではやたらめったら多用されている。

そしてとくにこの界隈では、リストカットがファッションと見なされたり、自殺願望を仄めかすような発言がさかんに横行したりと、いわゆる「病み系」といわれる抽象的なロールモデルに自己を適合させていくそう。

ソシュール的な言語学の観点からいえば、「ぴえん」というシニフィアンに対して、悲しい、嬉しい、感動した、などと異なる多数の感情表現としてのシニフィエが付されているという極めて曖昧で汎用性の高いワードである。
それゆえに多用されるのであろう。

この時代における共時態であり、各時代ごとに変遷してきたゆらぎやすい表現技法。

まだ20代に突入したばかりの私がもっともらしく保守おじさんのような意見を発するのは大変恐縮だが、このような細分化されていないいたって簡素な言語構造は、明確に事象を記述しないという点において、思考の範囲を限定的に狭め、それゆえ対処療法的な自己変革に転じられず再度ぴえんな事象の悪循環の渦の中を彷徨い続けてしまうのではと、僭越ながらどうしても感じてしまう。

なんせ言語構造が人間の思考の範囲を規定してしまう。ランガージュの檻に我々は閉ざされているのだ。

ジョージ・オーウェルの有名な小説「1984年」では、ニュースピークと呼ばれる極度に単純化された言語体型の使用を国民に推奨することで、思考の範囲を狭め、愚民化させ都合よくコントロールする政府というものが描かれている。

恐ろしくもこれを連想せざるを得ない。

なんにせよそれら全体をファッションと捉えた枠組みとして、そこに参入する形でいわゆる「量産型」に擬態し、これを個性として自他ともに認めつつ生活圏を一時的に、あるいは半永続的に形成していくのだ。

ありのままの自分の追求など実は脆弱な幻想なのだろうと思わされる一例がここに現われているように感じる。

もっとも、これは自然な適応反応とも言えるだろう。
なにも私はこの界隈を皮肉ったり嘲笑したり批判したりしたいわけでは決してない。

しかし、リストカットをファッションとしてしまうようなトレンドが自然形成されてしまう暗い世相が東京を覆いつつあるという事態には、あまり希望のある時代ではないと思えてしまうが、皆さんはいかがだろうか。

「自己への愛着こそが狂気の最初の徴表であって、人間が自己に愛着していればこそ、人間は過ちを真実として、嘘を現実として、暴力および醜さを正義および美として容認するのである」
ミシェル・フーコー

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