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【前編】バブル崩壊からパンデミック時代を生きる老舗旅館の15代目のこれまでとこれから

初めまして!私は北川健太と言います。佐賀県は嬉野温泉にある旅館大村屋の15代目として旅館のこと地域のことを考え活動しています。1984年生まれ現在は36歳。24歳で旅館の事業を継承して12年が経ちました。倒れそうだった宿の再建のために突然呼び戻され、経営知識もほとんどなかった私がどんなことをしてきて、なんとか2足歩行で歩ける宿にしてきたかをここの綴りたいと思います。いわゆる地方で働くこと生きることは都市部と同じように学びや刺激があることを知っていただければ幸いです。

「大村屋の歴史」

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旅館大村屋は江戸時代に大村藩の参勤交代の脇本陣としてうまれました。なので宿の名前が「大村屋」。たまに私は初めてやりとりする方に「大村健太さん」と間違えられます。旅館の屋号とオーナーの名字が一緒の人も多いから仕方がないと思い、私は「大村さん」とメールで相手が間違っていても気づかれるまでスルーする密かな遊びを楽しんでます。

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大村屋は嬉野温泉の中で一番長く続いている旅館です。創業天保元年(1830年)と謳っていますが、参勤交代が始まった時には宿屋をやっていたようなので実際の創業はもっと古い。というのも大正11年に温泉街一帯が大火にあい資料的なものはほとんど残っていません。その後「天保元年」と記された敷石が出てきたことから「創業天保元年」と謳い始めたようです。

「バブル崩壊と温泉街の衰退」

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物心ついた時にはバブル絶頂期。嬉野は歓楽温泉街として賑わいを見せていました。「夜は子供一人で歩くな」といわれるくらい毎日酔っぱらったおじさん達が楽しそうに騒いでるそんな町。多くのお客様は団体旅行。バスでやってきて夜は芸者をあげて大宴会。その後は温泉街に繰り出すと言った流れが主流でした。    そんな時代も長くは続かず・・・バブル崩壊を迎えました。

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これは帝国データバンクの資料なのですが私が12歳の時から旅館ホテルの倒産が増え続け17歳で倒産負債総額は最高に。中学〜高校と多感な年頃に町や旅館業界が衰退していく様を肌で感じた私は実家を継がず東京へ出たいという思いしかありませんでした。将来は好きな音楽業界(音楽雑誌の編集者)で働きたいという淡い夢を持ちながら東京の大学へ進学。

「地元を出て東京へ」

大学時代は音楽仲間とライブをしたり曲を作ったりしてましたがやはり才能がないことを改めて痛感。しかし、せっかく東京に出てきたのだからこれまで作った自分の曲をスタジオで録音してからきっぱりと夢を諦めようと決意。

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※「Sing a Song」は中学3年生に書いた処女作。ペギーは高校時代に書いた曲。 

嬉野帰ってからもローカル番組のテーマソングやエニタイムフィットネスのCM音楽を書いたりと若干悪あがきしています。

時代を大学時代に戻しますと、、

アルバム制作にあたり数十万円の費用がかかるということで時給が高いアルバイトを探しました。それで知り合いに紹介されたのがホテルのベルボーイ。時給が高かったのが決め手でこれまで避けていた宿泊業の道へ足を踏み入れました。

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そんなこんなで大学3年生から赤坂にある全日空ホテル(現在はインターコンチネンタルホテル東京)のベルボーイのアルバイトを始めました。ベルボーイの仕事は大変だけどやりがいがありました。そしてホテルは地方の温泉旅館と違って様々な人が行き交う駅のような場所、宿泊だけでなくレストランやコンサート、ワークショップや会議など様々な使い方ができる箱。こんな旅館ならやってみたいなと漠然と考えていました。

「就活に疑問を感じながら社会人というものへ」

そして就職活動の時期に入るのですが、天邪鬼な性格の私は就職活動自体に疑問を感じてほとんど何もしないまま卒業を迎えそうになりました。音楽雑誌社やレコード会社も不況のためか新卒をとっても1名とか今年は募集なし。他に入りたい会社もなく母の知り合いから紹介されたリゾート開発運営の会社に就職。そこは新業態として熱海と箱根に新しいラグジュアリー旅館を作る会社で「旅館をゼロから作る」ことは実家ではできないことだから勉強になりそうだなと思いを持ち、世にいう社会人になりました。

熱海の旅館ではお客様のお出迎えから食事出し、そしてお見送りまでを行うバトラーを経験。お酒が飲めておしゃべりできるということで夜のBARに入らせてもらったりもしていました。良い先輩や仲間にも恵まれ大変だけど楽しい日々。

就職して約1年半経った頃、母親から突然連絡が。

「話があるから熱海に行くね」

「事業再生計画」

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当時、旅館大村屋は破綻寸前。しかし、幸いなことに多くの方々の助けによりこの事業再生計画が動き出していました。この計画の肝が経営者を交代させること。そう、私が嬉野に帰り事業継承することが必須事項だったのです。自分が帰らないと大村屋がなくなってしまう。さらに母の乳ガンが見つかり闘病しないといけない事実も同時に聞きました。

就職して1年半しか経たず経営に関してほとんど知識がない24歳の私は不安でいっぱいでしたが、帰るしかない。

それから私の人生は急速に動き出しました。

「マイナスからの事業継承」

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2008年当時の大村屋外観

帰ってきた私を待ち構えていたのは老朽化が進んでいた施設。バブル崩壊後の数字を見れば修繕の余裕などなかったことが分かります。もちろん現在でも常に老朽化と修繕は老舗旅館の悩みの種。お客様に見えないところのハード整備は予想以上でした。「旅館の歴史は借金の歴史」です。

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この図は平成4年から30年にかけてのホテルと旅館の件数、客室数の推移です。ホテルは年々増えて旅館がそれに反比例して減少。バブル期に過剰投資が負担となり現代のニーズ対応できていないことなどこの数字には様々な要因があると思いますが、私はこれを見て変化しなければ生き残れないという危機意識を持ちました。

「依存体質からの脱却」

まず動いたのがリアルエージェント依存からの脱却。大村屋は当時30室ありましたが、15室はリアルエージェントに抑えられており自分の部屋なのに2週間前まで自由に販売することができなかった。これに強い疑問を感じました。

これまでの旅館業は大手旅行業社や代理店に依存をし過ぎていてパッケージ化、カタログ化された形態が高度経済成長時代からバブル期までの主流でした。日本自体の景気も良かったので代理店に部屋を提供していればどんどん予約が入ったのでしょう。また、送客する力を持っている旅行業社はまずはたくさん送客でき、たくさん利益もでる大型旅館を優先する傾向も強かった。そのために多くの旅館も大型化し、さらに銀行もどんどんお金を貸した。大村屋もそんな時代の流れの中に平成元年に新館建設(地下1階、地上5階建)の大きな設備投資を行いました。

つまり、「大きいことが良いこと」だったんです。

しかし、インターネットの時代になり自ら表現、発信をできるようになった。それに伴い台頭してきたネットエージェントでは規模の大小関係なく画面上で扱われるようになり個性や口コミなどで小規模・中規模の宿でも選ばれる時代に変化。旅や宿選びが多様化していた時代の流れは私にとって大きな希望でした。

次に考えたのは大きくもなく小さくもない資本力もない倒れかけの宿を知ってもらうためにはどうしたらいいのか。そこでインターネットとメディアを活用して様々な企画を始めるのです。

「企画することで宿、町を楽しく」

デフレ、デフレと叫ばれ旅行も安売り傾向の中、再建途中の大村屋も少し手頃なプランをとバンクミーティングで話題に上がり私は考えました。ただ単純に値下げしては常連様に説明できないし、元の値段に戻せなくなる。

そんな時にテレビを見ていたら大手餃子チェーンがお客である学生に皿洗いをしてもらい大盛り無料にして賑わっているという話題が放送されていました。本来客席にいるはずのお客が厨房に入り店員と仲良くなっている。

「お客様に何かやってもらうのは面白いな」

次の朝、宿泊者のアンケートを見ていたら「旅館の料理や温泉は良かったが町に見所がない」というものがいくつかありました。

「ガイドブックに載っていない見てほしい景色や温泉街の人たちがいるのになぁ」

この2つでの出来事を組み合わせてでできたのが

「一日一善プラン」

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温泉街を散策がてらにゴミ拾いをしてくれたら宿泊割引。新聞やテレビに取り上げられ通常は閑散期になるGW明けから6月は前年比150%。この企画をきっかけに既存の1泊2食を提供するだけはない自由な発想で様々なアイディアを形にしていきました。

「学びの宿〜温泉旅館でワークショップ〜」

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旅館の中でワークショップをする「学びの宿」。宿泊や食事だけない旅館の活用をした最初の企画で近くの職人の方々にご協力いただきました。本山さんとはその後の大村屋リニューアル部屋の家具も多数手掛けてもらっています。

「いとう写真館」

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銀塩モノクロフィルムで家族写真を撮る。旅する写真館。この企画は波佐見のカフェMooksで長崎のフォーカスさんでの写真館のフライヤーを見たのが始まりです。私の亡くなった祖父は写真好きで館内に暗室を作っていたそうです。祖父が残した写真がたくさんあり館内で写真展もやったりしていつか写真のイベントしたかったのと「家族の思い出を残す」という意味で旅館と写真の親和性を感じていました。

写真家、伊東俊介さんの活動や思いに感動し私はその日の夜に伊東さんのHPのお問い合わせから嬉野でも撮影をして欲しいと連絡しました。それから毎年1月初めに開催していて2021年で10周年を迎えました。現在では毎回100組近いお客様が撮影する定番企画となりました。

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「温泉旅館を舞台に音楽ライブ」

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元々父親が音楽好きで館内でジャズライブなど随時行っていました。都市部のライブハウスでのライブもいいのですが温泉旅館でやれば終電も気にせず音楽が楽しめる。さらに食事も温泉もあって部屋に帰れば布団が敷いてある。子供連れでも老後でも音楽を楽しめる環境としては最高ではないか。

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そして田舎にいても生演奏のライブが体感できる場を地元の人たちに提供したい。そんな思いで数多くのライブやDJイベントを開催してきました。

これまで大村屋でライブをしたアーティスト(一部)

勝手に観光協会(みうらじゅん&安齋肇)feat, 山田五郎、前野健太、bird、齋藤キャメル、門田JAW晃介、ピータ・バラカン、VIDEOTAPEMUSIC、川嶋哲郎、カンザスシティバンド、村上ポンタ秀一、菅原高志、ASA-CHANG、エマーソン北村、ウィリアムス浩子、小沼ようすけ、奇妙礼太郎、Sundayカミデ、akiko、ユッコ・ミラー、ヨシダダイキチ、中村達也、ビッケとカツマーレー、平賀さち枝など

「一番になるな」

事業継承から2〜3年間が経ち様々な企画を行い、旅館内の改装なども少しずつ進めて事業再生計画は順調に進んでいましたが、嬉野温泉に訪れる宿泊客は減少していて閉める旅館やオーナーが変わる旅館も出てきました。減少する少ないパイの取り合いでは限界がある。このままではいつかジリ貧になる。

そんな時に思い出したのが亡くなった伯母の言葉「一番になるな」です。

「一番はこの嬉野という土地であり温泉である。旅館はその上で商売をさせてもらっている。決して自分の旅館が一番と思うな」そんなメッセージだったと思います。自社のことはもちろんだが、嬉野温泉の魅力を磨いてこのエリアに行きたいという人を増やすことも同じくらい重要。

そんな思いのもと始めたのがチームUreshinoという”この指止まれ”の緩い集まりでした。

〜中編へ続く〜

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北川健太(旅館大村屋 代表取締役)

嬉野温泉で一番古い歴史を持つ老舗旅館に生まれる。
武雄高校、日本大学文理学部卒。ホテルのプロデュース会社に就職後、2008年に25歳で15代目に就任。嬉野のまちづくりに積極的に関わり「宿泊者vs旅館 スリッパ温泉卓球大会」をはじめ「もみフェス」「嬉野ディスクジョッキー実業団」「嬉野茶時」などの企画を多数手掛けている。
2017年夏より「湯上りを音楽と本で楽しむ宿」として旅館の一部を大きくリニューアル。又ビートルズマニアの顔を持ち2019年4月からエフエム佐賀にてラジオ番組「レッツ!ビートルズ on Radio」のパーソナリティを務める。2020年4月よりPodcast「嬉野談話室」をスタート。市内外で活躍する人たちの物語(ナラティブ)を対話形式で記録し一人一人が持っている魅力を発信している。https://anchor.fm/ureshino

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