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ターミナル、の終末。

大病院の窓口に、用事があってくる。ここの窓口は大きく広く、受付では沢山のスタッフが、これまた千客万来の患者の対応に休む間もなく働いている。天井も高いので、どこか海外の駅や空港のカウンターを思わせるようで、病院では稀に見る楽しい窓口だ。明るすぎず、過剰な作り笑顔のように清潔すぎないのも、おかしな話ではあるが感じがよい。

その大きな受付を、今は大きなビニールカーテンが覆っている。コンビニのカウンターのそれのような弛みもなく、美しく垂れ下がる透明な平面はまるでクリアで硬質な窓か、そもそもカーテンなどないかのように錯覚してしまうが、不意に番号を呼ばれて近づいていくとそこにはやはり、カーテンが厳然としてある。それが隔てているものに何が含まれるかはここでは問わない。

ところで、このビニールカーテン。おそらくコロナウイルスという脅威が去っても、あるいは撤去しないのではないか、と思案したりする。そもそも医療現場にとって、こうした衛生対策は必要であるし機能的である。

だがそれだけでなく、もはやこうして隔たっていること自体が日常化しており、いつ来るとも知れぬポストコロナにこれを取り払うという選択肢に思い至るかどうか。仮に外したとしても、まだそこにビニールカーテンがあると思い込みながら、あるいは特別気にかけることもなく、この人たちは黙々と仕事を続けていくに違いない。

もうコンビニやスーパーで財布を探ることも、荷物を袋に詰めてもらうこともなくなるだろう。これまた衛生の点からではない。それが“新しい”と呼ばれた生活様式であり、やがては誰も新しいとも思わない当たり前の日常なのだ。

かくして、利便性の点では、かつて漫画や映画で見たような、タイヤのない車や時空を超える引き出しもお手伝いロボットも身近にはまだ存在しないが、「管理」という点ではあの無機質な無菌室の間を防護服で往来するような、そんな未来はもう実現し始めているのかもしれない。

ご想像通り、この記事のタイトルはダブルミーニングだ。それこそ、どこかの空港…いつか観た映画『ターミナル』のような、通りすがり同士の人と人との交わりが生む温かな虚構の入り込む余地など遠い昔の思い出に過ぎないのだ。(了)

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