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脱・努力幻想、である。巷間、頑張らなくてもいい、努力しないほうがい、という意見を目にしたりするが、どれが本当なのかは誰にもわからないし、私にもわからない。だから、非努力のすゝめ、ではない。

第二次ベビーブームの子として、熾烈な受験戦争に投げ出された私であった。といって、私はあまり勉強熱心ではなく、ただ美術の勉強と読書だけは、おそらく他の生徒よりもしていたと思うが、それは人知れずのことだと振り返る。とにかくみんな受験で忙しかったのだ。人が何をしているかなどに興味を持っている暇などない。私が、他に理解し合える相手もいないので、教科書に隠して美術史の本や海外から送ってもらった画集、詩集や小説、音楽誌、哲学の入門書などを読んでいたことはだれも知らないことだ。当時から黴臭いものが好きだということを知っていた級友なら、数名はいたかもしれない。

そんな日々で、競争社会や偏差値至上主義になんの意味があるのか、などと逃避フラグばかり立てていたわけだが、夏期講習の担当だった英語講師が「できないことをひがむんじゃない。お前たち、競争社会ほど平等で合理的なものはないぞ。努力したやつが勝ち、しなかったやつが負ける。わかりやすいだろ」と予備校生たちを奮い立たせていたことはよく覚えている。

努力をすれば報われる。
努力をすれば成功する。
努力をすれば幸せになれる。
うまく行ったのは努力のおかげだ、云々。
 
確かにそれはそうだ。努力に優る天才はなく、天才と呼ばれる人たちにしても、見えないところで不断の努力を人一倍重ねている。努力は無駄ではなく、やった分だけ血となり肉となり、どこかで自分を大きく成長させてくれるのだ。その先に、勝利や幸福や豊かさがあるのかもしれない。
 
だが努力ができなければ、人生は何もうまくいかないのだろうか。平穏で豊かでない人生は、自己責任として受容しなければならないのだろうか。努力のない人生は、うまくいきもしないし、幸せにもならない。そういうことだと、当たり前のように受け止めて良いのだろうか。
 
しかし、世の中には努力ができない人がいる。努力していることが普通に届くための一歩にしかならず、その先の努力に辿りつかない人がいる。努力している姿が見えにくい人がいる。努力が努力に見えない人がいる。そもそも、継続的な努力ができない理由を抱えている人たちがいる。
目に見える努力、結果に繋がった努力は語りやすい。しかし、そうでない努力は誰にも評価されない。
 
何度も書いてきたように、努力が美徳なのはわかる。それは、「真・善・美」とおなじくらい愛されてきた徳目のエースである。古今、洋の東西を問わず、異論を挟む余地もないほど完璧に完成した褒美への原動力に相違ない。
しかし、やはり古今東西を問わず、その努力から、望まずしてこぼれ落ちる人々がいることもまた事実である。彼らは長いこと、この世の春を謳歌することなく脱落し、排除され、偏見の目に晒され、黙殺されてきた。
 
努力のないところに人生の収穫はない―。はたして人生というものは、選択肢が一つしかない、それほどまでに融通の利かないものなのだろうか。努力という圧倒的な幻想から抜け出し、まばゆい一元的な勝利の靄を振り払って、そこに収まりきらない命について刮眼することでしか見えない美徳というもの、そしてその可能性を受け止める世の中が、どこかにそろそろあってもよいのではないだろうか。(了)

Photo by Pexels,Pixabay


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