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記憶の迷宮で、もう迷うことがない。

最近物忘れがひどい。もともと記憶力の良い方ではなかったが、自分で想像していたよりもずっと早く、物忘れというギフトが届いたようである。

例えば、なにかを思い出そうとしても、それがすぐに出てこない。スマホですぐに調べてしまうのは記憶という機能にはよくないと何年も言われ続けてきたが、その通りだと思う。しかし、調べないでは進まないこともある。それで、ついスマホの世話になってしまう。

バカバカしい話だが、人生の多くの時間を使って身につけてきた知識の数々、それも、単に知識として蓄積するためではなく、ほぼ自分が生業の肥やしとするために、あるいは必要に迫られて身につけてきたあらゆる知識、つまりは文学であり、哲学であり、美術であり、特に音楽であり、言語であり旅の記憶であり、読んだ本の内容である。様々な作法もどんどんと頭の中から抜けていく。

そうした点的なものを、混沌に集めては自由自在に切り貼りして、一枚の絵を描く。その図像から見えてきたものが、次の思考実験の地図になった。そういうものの捉え方や考え方をしてきた私からすれば、そうした深く穿たれた点がひとつまたひとつと姿を消していくことは、非常に苦しいことである。地図の線が薄くなっていくような感覚で、元の場所に帰れなくなるような、あるいはいまいる座標を失うような、あるいは旅という営為そのものを喪失するような恐怖に襲われる。かつての私を知る人ならば、あの頃の知識量で会話ができないことに驚くのかもしれない。

しかし、である。人は必要とするときに助けが現れるとばかりに、今では私の変わりに些末な、しかしきわめて重要な事々を記憶してくれる人が周りにいる。認めたくはないが、スマホもある。

そうして、記憶の作り方に変化がでると、絶妙なことに、脳は勝手に優先順位のファイルを整理してくれる。これが実に素晴らしい。

つまり、記憶力が衰えると、優先的に記憶しておかなければならないことを、優先的に記憶して最前列のファイルに放り込んでくれる。そうして、二冊目のファイル、三冊目のファイル、という具合に、記憶は優先順位を常にリフレッシュしてくれるのである。
そうなると、日常でぜったいに忘れてはならないことをまず忘れなくなる。忘れない事柄は、欠かすことの出来ない記憶とイコールになる。

さらに、脳内の記憶や情報が優先事項順に整理されることで、案外、作業効率が格段に向上する。余計な記憶こそが私の創造の源であったのだから、それを失い続けることは寂しいことであるが、実務的なことや日常の作業は格段に速く片付く。これは、おそらく若い頃の数倍も速度が上がっていることに間違いないのである。余った時間は、今ではやがてすぐに忘れてしまうのだとはいえ、それまでのようにどうでもよい知識や経験の獲得に費やせばいい。

最期は人間、何も持っていくことはできないというが、確かに私にとってはかけがえのないあの地図だって、思い出せなくなるならば大して重要な―つまりは生涯を通じて執着すべき―ものではないのかもしれない。
失うと思うからどこか未練が残るのだが、手放したと思えば、それは物忘れではなくなる。自律的で主体的な失念は、放念である。

果たして、物忘れをするということも百害ではない。もともと物覚えの悪い私が、知識で語ることなどそもそも虚仮威しではないか。点の数が減っても、そこにそれらしい絵図を描く当意即妙と虚実の際をゆく正論こそ、実は私の得意とすることであったのだという種明かしをここでするのはいかにも惜しいが、なに、これはギフトなのだ。記憶力の喪失は、作業効率と余白の獲得である。(了)

Photo by BlenderTimer,Pixabay

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