他のSNSでは(もしかしたらここでも)既にさんざんシェアされているのだろうし、今さらなのかもしれないけど、だったら何だ。日頃マイノリティ/他者を意識しづらい学生たちに観てもらえるので、こういう動画は本当にありがたい。誰しも先入観に阻まれていれば、目を閉じているのと変わらない。それは現代の東京で生きる若者でも同じだ。未見だった学生さんは観ておいてもらいたい――予備知識なく鑑賞できるし、初見ではその方が面白いだろう。
DEBO氏による紹介記事がこの「謎解きミステリー」に多くの視聴者が抱くであろう「ある既視感」を代弁している。
たとえばハリウッドにおける「日本人」あるいは日本人俳優という表象問題は、そのまま日本国内の「マイノリティ」あるいはマイノリティ俳優をめぐる表象問題としてみることができる。この動画自体は数年前に発表されていたわけだが、その後に起こった様々な「問題」、それらの激震は日本の芸能界に刷新が待たれていることを誰の目にも明らかにした――もちろんいつもながらの、「何かが崩壊するまでは腰を上げないのだろうか」というもどかしさを残して。
日本では俳優もミュージシャンもカミングアウトできない。その代わり、主に結婚発表して「ブライト・ノーマルだと保証された」俳優たちが、「ゲイ疑惑」(疑惑って何だ?)をもたれない安全な環境を得て性的少数者を演じ、「演技の幅を広げた」と称賛されてきた。一方視聴者はそれがシス‐ヘテロ演じる虚構世界であることに安心し、消費できる。男性同性間のラブシーンにしか聞かれない、視聴者の「役者は大変だなあ」というあの言葉。「こんな役を演じるのはさぞ苦痛だろう(と同情している自分はゲイじゃないからね)」という言い訳を忍ばせ幾重にも自分の心をガードする、くそダセえあの言葉。確かにそうした弛緩しきった感性に「過剰な配慮で」レベルを合わせていては、新しいことなんかできないだろう。だが真に挑戦する人々が現れたとき、私たちはそれこそ待ち望んでいたものだったと熱狂するのだ。
「MOSAIC STREET」にはそういう野心がある。胆力がある。ああ「社会的で」良かったよ脇田さん。でもあんたは脇田さんじゃない。善人ぶるなよ松崎さん。マイノリティ・プライドにはいつだって抑えられない欲望がある。あんたは誰よりカッコいいことをしたかったんだ。「こっちの方がカッコいいだろ?」とスタッフキャスト全員でほくそ笑んだんだろ。
シス‐ヘテロの俳優が性的少数者の役を演じること(マジョリティがマイノリティを演じること)については現時点での意見を述べておきたい。「マイノリティの役をマイノリティの役者から奪うな」――そういう考え方に私は納得するし、賛同する。「簒奪」という言葉がある。本来王位継承する立場にない者が王位に就くことをそう言うのだが、これも一種の簒奪であると、私は同意する。だが同意するだけじゃダメだ。ここには避けられない問いがある――「ゲイとカミングアウトした俳優がヘテロのラブロマンスを演じること、レズビアンが良き母親を演じること、トランスジェンダーが上司を演じること、アセクシュアル俳優が主役であること」を、このダサい(そう、まるでジェンダークリティカルな)私たち=消費者は受け入れられるだろうか。もちろん私たちは既に何人ものスターがゲイであることを隠しながらセックス・シンボルであり続けた事実を「知っている/察した上で受け入れていた」。だがカミングアウトしないことを私たちが暗黙のうちに「契約させて」、それは成立していたのではなかったか――「あなたが私生活でゲイなのは構いません。ただし明らかにしないで下さい。私たちの消費のために」と。私たち消費者がもっと大きなイエスを示さない限り、状況が真に変わることはない。成長が待たれているのは作り手だけではない。私たちもそうなのだ。しかし名演はいくらでも過去の作品にあった。あったはずだったのである。