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MOSAIC STREET マイノリティたち

 他のSNSでは(もしかしたらここでも)既にさんざんシェアされているのだろうし、今さらなのかもしれないけど、だったら何だ。日頃マイノリティ/他者を意識しづらい学生たちに観てもらえるので、こういう動画は本当にありがたい。誰しも先入観に阻まれていれば、目を閉じているのと変わらない。それは現代の東京で生きる若者でも同じだ。未見だった学生さんは観ておいてもらいたい――予備知識なく鑑賞できるし、初見ではその方が面白いだろう。


もし日本のドラマで マイノリティのキャラが「フツー」に登場し、その姿が日本中のお茶の間で流れたら・・・ 「モザイク・ストリート」はそんなドラマを実際に体験して頂くために作りました。 「こういうドラマが本当にあったら良いのになあ」と思われたら、ぜひご感想と共に、この動画をSNS等でシェアして応援して頂ければ幸いです。そういった声が多く集まれば、きっとこのようなドラマが生まれるようになるはずです!✨ Twitterでシェアする際は↓こちらをRTして頂ければと思います。

/ 1491460248552427520 ファンアートや感想など
/ 1498663862098268161 記事:日本人ハリウッド俳優・松崎悠希の新プロジェクト/国内マイノリティ俳優を支援

https://note.com/kumikoshimizuwp/n/ne...
『モザイク・ストリート』は多様性が既に受け入れられた後の日本を舞台にした探偵ドラマです。『モザイク・ストリート』の世界観の特徴は、登場人物の人種、民族、障がいの有無、性的指向、性表現、性同一性がストーリー展開の要素として特別視されず、それぞれのキャラクターが、それぞれの属性を保ったまま、その属性が「既に社会に受け入れられた状態」で登場する点です。 「モザイク・ストリート」の世界では、マイノリティのキャラクターは当事者の俳優が演じることが前提となっています。これにより当事者自身が、自身の社会的属性を全世界に発信する……つまり「当事者による表象(ひょうしょう)」が可能となります。主人公、私立探偵のトランスジェンダー女性である徳留隆徳を演じるのは、実際にトランスジェンダーの女優であるKOTA。レズビアンで主人公の右腕的な存在である安藤真由美は、レズビアンの女優であるAmi Ide(アミ・イデ)が、そしてミックスルーツの日本人女性である助手の御手洗若葉は、ミックスルーツの日本人女優であるEma Grace(エマ・グレイス)がそれぞれ演ずる。
企画、脚本、制作総指揮:松崎悠希 https://www.imdb.com/name/nm1452105/
監督・エグゼクティブ・プロデューサー:深田志穂 https://www.shihofukada.com/
制作プロデューサー:髙野力哉
https://www.imdb.com/name/nm9821292/
CAST
徳留貴徳役/KOTA / kotaane
安藤真優美役/Ami Ide(アミ・イデ) / amiidemusic
御手洗若葉役/Ema Grace(エマ・グレイス) / ema84761077
脇田役/松崎悠希 / yuki_mats
マスター役/渡辺裕之 / harryspapa
音楽:Ken Rangkuty / keenhouse
キャスティング:岩上紘一郎
エグゼクティブ・プロデューサー:KOTA、深田志穂、エイジ・レオン・リー、岩上紘一郎
撮影監督:キース・ベッドフォード
制作アドバイザー:山本康士

You Tube の概要欄から

 DEBO氏による紹介記事がこの「謎解きミステリー」に多くの視聴者が抱くであろう「ある既視感」を代弁している。

この作品に出演する俳優は、全員マイノリティだが(松崎氏曰く、ハリウッドでは彼もマイノリティ)、それを物語上で特別視しているわけではない。それぞれが作品の中で与えられた役を演じ、日英のセリフが入り乱れる、どこか近未来的で、独特な空気感のミステリー作品だ。画面に映る独特の重厚な光は、俳優たちをドラマの世界にごく自然に映し出し、観るものに緊張を強いる。10年後、いや3年後には、これが普通の感覚になっている、そんな希望が込められた作品だ。

プロデューサーでもある、松崎悠希氏は、「マイノリティへの差別を描くだけでは、マイノリティの方々の社会進出にはならないんです。社会で受け入れられるということにはつながらないんですよ。すでに受け入れられた後の世界を実際に見せてあげて、視聴者がその状態が「普通」だなと感じるようにしてあげないといけない」と語る。

この作品の根底に流れる、重要なメッセージだ。

映画「モザイクストリート」にできて、日本映画にできないもの。

 たとえばハリウッドにおける「日本人」あるいは日本人俳優という表象問題は、そのまま日本国内の「マイノリティ」あるいはマイノリティ俳優をめぐる表象問題としてみることができる。この動画自体は数年前に発表されていたわけだが、その後に起こった様々な「問題」、それらの激震は日本の芸能界に刷新が待たれていることを誰の目にも明らかにした――もちろんいつもながらの、「何かが崩壊するまでは腰を上げないのだろうか」というもどかしさを残して。

もう映画の製作者(出資者や製作委員会)は、この表象問題に対し、傍観者ではいられないと悟るべきである。社会的少数者が安心して暮らせる世の中とは、娯楽やアートもすべて、その人たちをありのままに受け入れ、誰にでも常にオープンであるべきだからだ。新しいビジネスとしても、可能性を秘めていることが明らかになってきた今、マイノリティ俳優を積極的に起用することは、その作品にとってメリットしかないはずだ。

まずは大至急、セクハラ、モラハラ、パワハラを含む、犯罪行為、アンフェアな取引が横行しないよう、今すぐ社会へメッセージを出すことが、不可欠だ。それができない企業、団体は、松崎氏が繰り返し叫んでいるように、次世代の人材や観客からも、今後選ばれなくなることを知っておくべきである。

新しい価値観が生まれる時、多くの人にとっては霧のような、ノイズのようなものかもしれない。しかし、そのフォギーなノイズの中に新しい未来があると信じる。それは、たとえこの身の犠牲を払ってでも、勝ち取らなければならない未来だ。映画や舞台アートを目指す、マイノリティの人々が、そもそもスタートラインにすら立たせてもらえない、そんなエンタメ業界を捨て去り、壁の外でその才能と輝きを発揮し、自分たちの手で、健全な競争の場をつくりだすのだ。

「モザイクストリート」は、その狼煙である。

映画「モザイクストリート」にできて、日本映画にできないもの。

 日本では俳優もミュージシャンもカミングアウトできない。その代わり、主に結婚発表して「ブライト・ノーマルだと保証された」俳優たちが、「ゲイ疑惑」(疑惑って何だ?)をもたれない安全な環境を得て性的少数者を演じ、「演技の幅を広げた」と称賛されてきた。一方視聴者はそれがシス‐ヘテロ演じる虚構世界であることに安心し、消費できる。男性同性間のラブシーンにしか聞かれない、視聴者の「役者は大変だなあ」というあの言葉。「こんな役を演じるのはさぞ苦痛だろう(と同情している自分はゲイじゃないからね)」という言い訳を忍ばせ幾重にも自分の心をガードする、くそダセえあの言葉。確かにそうした弛緩しきった感性に「過剰な配慮で」レベルを合わせていては、新しいことなんかできないだろう。だが真に挑戦する人々が現れたとき、私たちはそれこそ待ち望んでいたものだったと熱狂するのだ。
  
 「MOSAIC STREET」にはそういう野心がある。胆力がある。ああ「社会的で」良かったよ脇田さん。でもあんたは脇田さんじゃない。善人ぶるなよ松崎さん。マイノリティ・プライドにはいつだって抑えられない欲望がある。あんたは誰よりカッコいいことをしたかったんだ。「こっちの方がカッコいいだろ?」とスタッフキャスト全員でほくそ笑んだんだろ。


 シス‐ヘテロの俳優が性的少数者の役を演じること(マジョリティがマイノリティを演じること)については現時点での意見を述べておきたい。「マイノリティの役をマイノリティの役者から奪うな」――そういう考え方に私は納得するし、賛同する。「簒奪」という言葉がある。本来王位継承する立場にない者が王位に就くことをそう言うのだが、これも一種の簒奪であると、私は同意する。だが同意するだけじゃダメだ。ここには避けられない問いがある――「ゲイとカミングアウトした俳優がヘテロのラブロマンスを演じること、レズビアンが良き母親を演じること、トランスジェンダーが上司を演じること、アセクシュアル俳優が主役であること」を、このダサい(そう、まるでジェンダークリティカルな)私たち=消費者は受け入れられるだろうか。もちろん私たちは既に何人ものスターがゲイであることを隠しながらセックス・シンボルであり続けた事実を「知っている/察した上で受け入れていた」。だがカミングアウトしないことを私たちが暗黙のうちに「契約させて」、それは成立していたのではなかったか――「あなたが私生活でゲイなのは構いません。ただし明らかにしないで下さい。私たちの消費のために」と。私たち消費者がもっと大きなイエスを示さない限り、状況が真に変わることはない。成長が待たれているのは作り手だけではない。私たちもそうなのだ。しかし名演はいくらでも過去の作品にあった。あったはずだったのである。


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