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その心に触れることが出来ているのか?触っているのか? / 『手の倫理』より

子供との他愛のない会話から、まじめな話、しつけ、はたまた怒る、言い合い。
そんな時、自分はどのような言葉、感情、雰囲気を投げかけているのか。

ちょっと前に読んだ『手の倫理』という本の冒頭で、「さわる」と「ふれる」の違いについて書かれている部分があり、自分のコミュニケーションの取り方について振り返ってみたくなった。



「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。
「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。
逆に、物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときに、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。


この本では上記に引用したようなコミュニケーションの入口のことだけではなく、そこから始まるリアクションのやりとりや、そこで生まれる感情の事など触覚から繋がるいろいろなことが書かれている。

今回はまずコミュニケーションの入口、最初のアクションについて考えてみたい。


会話や感情も、触覚と同じ


手や体を使った触覚としての「さわる」「ふれる」の違いは、そのまんま会話や感情のやりとりでも同じことがいえるのではないかと思う。

子どもと何気ない会話など、様々なコミュニケーションをとる入口として、
寄り添った(ふれる)接し方
押し付ける(さわる)接し方
どちらの接し方をしているのか。

気持ちではいつでも「寄り添った(ふれる)接し方」をしたいと思っている。ただ、出来ているのかと振り返ってみるとケース・バイ・ケースでどちらの接し方もしている。
「押し付ける(さわる)接し方」を、したくはないと思いながらも普通にしてしまっている。

コミュニケーションをとろうとする入口で、いきなり「さわる」接し方から始めてしまうのは良いのだろうか?
きっと良くない。

いきなり「さわる」接し方を受け取る子どもは、初めから感情のモードが親に対しても「さわる」になってしまうだろうし、素直に受け取ろうとする気持ちもなくなってしまうと思う。

子どもは言葉を受け取っているのではなく、感情を受け取っている。

以前、芸人の小島よしおさんがこのように言っていた。

このことは理解も納得もしているのに、自分のその時の感情や希望を無意識に優先してしまっている。やはり自分中心になっているのだなと思う。


グラデーションやバリエーションがある


人間を物のように「さわる」こともできるし、物に人間のように「ふれる」こどもできる。
この事がしめしているのは、「ふれる」は容易に「さわる」に転じうるし、逆に「さわる」つもりだったものが「ふれる」になることもある。


この「ふれるは容易にさわるに転じうる」ということは、本当にその通りで、感情では「さわる」なのだけれど、いかにも「ふれるような」ポーズをしていることもある。例えば、寄り添っているように見せて、実は自分の考えや気持ちの方に誘導していること。
その逆もある。

また、自分の意識とは反対の受け取り方をされているということもあるだろうし、受け取る側の認識、その時の気分や、状況で、自分では良いと思っている「寄り添った(ふれる)接し方」をしてみても、「今はふれる接し方をされたくない」ということもあるのだろうと思う。

「ふれる」と「さわる」の接し方というのは、どちらかの二項対立なのではなく、そのふたつは常に共存していてそれぞれ割合が違う、バランスの異なる接し方というものが、考えつかないほど多様にあるのだろう。

だから何が良くて、何が悪いなんて決めることは意味のないことなのかもしれない。
最初の入口をどのような態度で接するか。
これって自分の考え、感情、気分に無意識のうちに引っ張られてしまうものだから、気をつけることは難しい。
その時その時に自分が良いと思える接し方を選んでいくしかない。

ただその時に忘れないようにしたいのは、これはまだコミュニケーションの入口の段階であって、その後のリアクション・アクションでいくらでも修正できるということだ。


子どもからはどうなのか


自分がどのような接し方をしているかにばかり、目がいってしまうけれど、子どもから始まるコミュニケーションでは、どのような接し方になっているのか?

内容や場面によって「さわる」接し方をされていないか?
(これはある種の成長とも捉えられる場面もあるとは思う。)

一番気にしてしまうのは、親のいつもの態度を見て、「ふれる」「ふれ合う」コミュニケーションをとることに、あきらめの気持ちを持たせてしまっていないか?ということ。

「あきらめの気持ち」を持ってしまうと、親以外の他人に対しても同じように、あきらめる場面が出てきてしまうのではないか?

子どもと、親である自分の信頼関係をうまく築いていきたい気持ちはもちろんあるけれど、それよりもむしろ家族以外の他人に対して「あきらめの気持ち」を持ってほしくない。

ではどうすれば良いのかと考えてみると、自分が子どもへの接し方についてあきらめないことだろうと思う。たとえ悪いと思う接し方になってしまっても、その時は出来なくても、あきらめず修正することを見せていかないといけない。

見本になるように見せるということに意識を向けるのではなく、単純に子どもに対してあきらめない気持ちを無くさないようにしていきたい。

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