「ぬくもり」は共に創る
「ぬくもり」ってなんだろう?
「ぬくもり」が恋しい と言う表現があるように自然と求めてしまうものではありそうだ。
ただ、求めている「ぬくもり」の正体とはいったい何なのか?
さらになぜ求めてしまうのか?
「ぬくもり」を考えていく上で、自分の仕事であるレンタルキッズコーナー「リトルツリー」で日々「木製のおもちゃや遊具」を扱っていることに加え、『手の倫理』という触覚に関わる本を読んでいたこともあり、普段なんの気無しに使っている「木のぬくもり」という概念から紐解いていきたい。
「木のぬくもり」の科学的観点
「木のぬくもり」について調べてみると、いろいろな角度から説明されている。その中から科学的な観点を2つ取り上げたい。
熱伝導率が低い
脳波からわかること
熱伝導率が低い木という素材の特徴が単純に身体的な触覚として「ぬくもり」を感じること。
木を触っているときの脳に与える刺激が他の素材に比べて少ないことから「やさしさ」を感じること。
この2つ以外で「ぬくもり」の要因として言われていることは、
木の素材が持つ「暖色系の色」「木目」という特徴から視覚的に心を落ち着かせる効果がある。
木の香りを嗅ぐことによる嗅覚的なリラクゼーション効果がある。
植物として生きていた素材の生命力を感じる。
一言で「木のぬくもり」と言ってみても
~~だから「ぬくもり」を感じると言い切れるものではなく、いろいろな要素を意識的、無意識的かにかかわらず五感で複合的に感じ取っているものが「ぬくもり」というものなのだろう。
「今私がふれている この木のぬくもりは」
科学的なこと、木に対する印象をいろいろ調べてみるほどに、一方では「木のぬくもり」というものにはどこか感情が込められているというイメージも膨らんでくる。
そんな掴み所のない感情を考えていたとき、とても印象深く心に残る詩に出会った。
ぬくもりは昔だれかが残した手の跡
手の跡と表現されている「ぬくもり」は、とてもノスタルジックな考え方で、正面切って言葉にするのは、どこか少し恥ずかしくなってしまうものでもある。
それでも科学的なことばかりではない、感情やイメージが「ぬくもり」には込められているというようなノスタルジックな解釈の方が、元から抱いている自分の中のイメージと合致している。
「ぬくもり」とは、科学的、感覚的、創造的なことが幾重にも折り重なっているもので、さらには人それぞれ、タイミングなどによって解釈が変化していくものなのだろう。
解釈が定まらないからこそ、そこにノスタルジックな感情も芽生え、「ぬくもり」というものに「良さ」を感じている。
「ぬくもり」というものは無条件に良いもの、素敵なものだと認識しているのは、その時々の自分が思いたい解釈をしているからなのかもしれない。
「ぬくもり」のコミュニケーション
「ぬくもり」そのものについて考えてきたけれど、そもそも「ぬくもり」というものはそれだけで存在するものではない。
人と人との間にあり、それぞれを繋ぐもの。
コミュニケーションツールでもある。
自由な感情を込めて贈る「ぬくもり」
自由に解釈して受け取る「ぬくもり」
「ぬくもり」を通してコミュニケーションをしているのである。
一つのコミュニケーションツールとして捉えてみても、なぜ「恋しい」というほど求めてしまうものなのだろう?
寂しい、足りないと感じているときは分かりやすく求めてしまう。
一方では自分で不足感を感じていない状態でも、無くても困らないが、あると嬉しいもの。「ぬくもり」は安心する為のツールでもあるのだと思う。
「ぬくもり」は共創されているもの
「ぬくもり」は贈る人が自由に感情を込め、受け取る人が自由な解釈をするというような「贈り合い」をしている。
ただ、それぞれの感情や解釈の結果として「贈り合い」をしているというような、贈る人、受け取る人どちらかだけでは成り立たないのではないかと思う。
常に「ぬくもり」には相手が必要で、意識的か無意識的かに関わらず相手の存在に対して生まれる感情そのものが必要不可欠なのだ。
贈る人、受け取る人どちらか一方で成り立つものではなく、お互いにとって魅力的に「共に創り上げた」ものが「ぬくもり」だのだろう。
無意識かもしれないけれど、相手が存在し共創した「ぬくもり」の中に、相手を想う感情、想われる感情が含まれているからこそ、自分にとって、相手にとってそれぞれが心地いい素敵な解釈へと繋がっていくのだなと感じている。
身近な人と、共に創り上げる「ぬくもり」を贈り合うことが出来たなら、とても豊かな関係を築いていく為の潤滑油になるだろう。
そのためには、当たり前のことではあるが常に相手を想う気持ちがかかせない。
当たり前・・・
特に子育てをしていると、どうしても自分の都合を優先してしまったりと当たり前のことが抜け落ちてしまう。
常に心がけるのは難しいけれど、当たり前のことがいつもいつも出来ているわけではないと心に留めておくだけでも少しは違うのかもしれない。
考え続けていきたいこと
引用した詩にあるような特定の誰かではなく、いつ届くかも分からないノスタルジックな「ぬくもり」は、相手が存在しないので共に創ることが難しい。
存在しない相手へ「ぬくもり」を届けるのはもはやロマンというか、思いたいだけ、自己満足の話になってしまう。
自分の場合は、リトルツリーという会社で日々リペアした木製のおもちゃや遊具をキッズコーナーで遊ぶ子ども達に届けている。
届けるのはそのキッズコーナーで遊ぶ子どもという範囲は定まってはいるけれど、特定の誰かではない。
不特定多数に向けた商品、サービス全般同じような問いがありそうだけれど、そこに「ぬくもり」をどう込めていけばいいのか?
自己満足で終わることなのかもしれない。
それでもそこを求めてこれからも考え続けていきたいと思っている。
「ぬくもり」に魅力を感じているし、何かを感じとってもらいたいと思っているのだから。
いつか「恋しい」と思ってもらえるように。
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